平成17年春季企画展によせて

 平成17年度の入学式に企画展 示を創作しようと、平成16年の1月にホームページに企画員(ボランティア)の公募を呼びかけ、応募くださった3名、最終的には4名の方々と、1年間にわ たって10度の討論会を(1回3~4時間)経て、この『考古学を愉しむ』の展示はできあがりました。
 年間に1000億円を超える巨 額の公的資金が使われている文化財としての考古資料を扱う調査に、多くの女性が活躍なさっている昨今の状勢に鑑みて、「女性が羽ばたく考古学」と題する展 示を創ることを想定していました。具体的には、ガロッド女史、ルロワ=グーラン夫人、ソンヌヴィル=ボルド夫人などの考古学史に「方法」を伴って革新的な 業績を残した女性研究者のお仕事に焦点を当てることを考えました。しかし科学する行為に「女性」とか「男性」とかの枠を設けて考える発想はおかしいとの当 然の疑問が出され、「考古学の方法」を問う研究を捜すことにしました。考古学という「科学」が存在するについての「方法」とは何かという基本的な問題に、真正面から、素直に取り組むことになりました。考古学が扱う資料(考古資料)とは、(過去の)ヒトが作って使ったものですから、そのものに関わったヒトの ジェスチュアーを、そのものやそれの痕跡から読み取る作業がなされていることが、わたしたちの取り上げる研究であるということになりました。
 そこで展示の基本コンセプトは、展示物を見せるというよりも、「考古学者」がその頭脳で推理していく過程を観覧者が「追体験」(その気になられての話ですが)していけることということになりました。2度の討論会にまたがって激しい議論になったのは、「導線誘導型」の展示を採用するか否かの点でした。展示場の空間に展示物を置くこと は、「考古学者」の思考を平面的配置を基調としつつ立体的に想定復原することになります。それには演示具の工夫を伴う展示物の見せ方や、展示ケースの配置 が必須的に鍵を握る要素になりますので、「考古学者」の考古資料の「独創的な」見方を、展示技術の専門家によく理解してもらうのにかなりの時間を割きました。そして「その思考は誘導的に再現してもらうよりも、参観者が展示物のあいだを「さまよう」ように巡るなかで「追体験」しつつ獲得されていくのがよいと考えるに至りました。
 考古資料の種類と言いますと、 例えば石器、土器、埴輪、金属器(鉄器や青銅器など)、木器、瓦などをあげることができます。こうして羅列しますと、材質の別の呼び方と、機能を限定した 「特殊」なものが混在しているように見えます。土器とは土で形を作って焼成したものであると言えば、瓦や埴輪はそのなかに含まれますが、何らかのものをな かに納めることができる形をとるものと限定すれば、器になっているのが前提となって、瓦や埴輪は除外されます。しかし石器、土器、金属器、木器といったカテゴリーとの整合性を問うときには、瓦、埴輪をそこに並べますと違和感を与えることは否めません。したがってこの種の呼び分けは便宜的なものでしかありませんが、瓦や埴輪と呼ぶものは、それらが造られるときの状況がより具体的に想定できそうに思えます。すなわち寺院(後には宮殿や家屋)が建てられるのが前 提にあって瓦は造られるのですし、墓(古墳)が造られるのを前提にして埴輪は作られるのです。しかも両者とも、程度の差はあったとしても、一定の企画性を伴う工人組織が存在して造られたと考えることができましょう。もしもこの推定があたっているとしますと、瓦や埴輪は、ここに羅列した他のカテゴリーの考古資料よりも扱うのが易しいことになります。考古資料を認識して、論じる設定課題に適切な証拠を引き出す作業に「考古学の方法」があるとしますと、その提示には「扱い易い」瓦や埴輪を用いるのが分かりやすい説明ができるということが想像できました。
 こ ういう具合に考えて、『考古学を愉しむ』と題する展示には考古資料のなかから瓦資料を取り上げることにしました。瓦を造るときにヒトが演じたジェスチュアーを頭に浮かべて、そのときにどのような痕跡が瓦に残るかを「考古学者」が想定して、過去のヒトのそのときの振る舞いを暴いていく証拠捜しを進める過程 を展示しようということにしました。4つの時期にしか分けられなかった軒瓦をもとに、少なくとも8つ、または9つの造瓦される単位に、出土した(すべての)瓦資料を捉えています。木っ端微塵(こっぱみじん)になってしか出土しなかった瓦資料を出来るかぎり完全な姿にしようと「ひっつけ」まわした「考古学 者」を見てくださってもよいのです。この木っ端微塵の瓦資料が示すこととして、どこから、「どれとどれが一緒になって出土したかを」正確に、細かく記録した「考古学者」の地道な努力を見てくださってもよいのです。そのような地道な努力の結晶が考古学の成果となることを示したいのです。それは「結果」を重視 すぎるように思える現代世相に対して、地道な努力の大切さを訴えたい展示意図をも反映します。しかししょせんは展示です。参観者はお好きなように見られる のがよいのではないかと思います。
 最 後に申し添えますが、この展示にしている研究は、それまでは瓦資料など検討もしたことがなかった「考古学者」の手になったものですし、瓦資料の「専門家」 はその研究について「沈黙」を守っておられるように思います。またこの展示は、展示などを企画する経験のなかった方々に広く呼びかけて、それに応じてくださった一般の方々の討論の結果の作品です。考古学とはどのようなことを、どのように知ろうとする科学なのか、展示とはどのように制作するものだろうかという、素直な問いに、真っ正面からひとつの答えを引き出した、わたしを含めての「アマチュアー」集団のひとつの答案です。

(京都大学総合博物館・資料基礎調査系・教授 山中一郎)