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開館にあたって
瀬戸口烈司

 京都大学に総合博物館が付置されて,すでに4年半になる。今年6月には一般公開を始めた。入館者も順調のようである。社会に開かれた京都大学の窓としての役割がはたせているのなら,まずは京大附属博物館としては及第であろう。
 ようやく開館を迎えることができたこの時期だからこそ,ほとんど語られることもない「裏の話」を披露しておきたい。
 大学に博物館がほしい,というのは大学人に共通した願望であろう。京大にはもともと文学部博物館はあったが,自然史系の博物館は存在しなかった。その文学部博物館にしても,建物だけがあって,組織は未整備のままだったのである。
 文系にせよ,理系でも,研究が進めば標本・資料のたぐいは膨大な量が蓄積される。それらが各教室の廊下に山積みされ,放置されるひとしい運命をたどっていた。それらを収蔵して保管し,有効に活用する場として,博物館の建設がつよく望まれたのである。大学にあっては,ごく自然な流れである。
 1997年に,ついに京大に総合博物館が付置されることになった。博物館の3大使命は,標本・資料の収蔵と研究,そして展示である。標本・資料の保管・管理や研究については,それぞれの研究が各教室において経験を蓄積しているところで,いわば研究者の「お手のもの」なのである。
 ところが,展示については,研究者はまるでしろうとである。このように大掛かりな常設展示を経験した研究者など,京大の自然史系教官には誰もいない。どのような物を,どのように展示すればいいのか。新館建設と展示場の概要をすぐにとりまとめ,概算要求書に盛り込まなければならない。得意とする分野だけを駆け抜ければいいという時期はすでに過ぎた。
 1970年代に,国立民族学博物館が開館してから,日本のなかで博物館の展示のありようががらりと変わってしまった。地方公共団体による公立博物館が次々に建設された。博物館ブームが巻きおこったのである。そして,「民博元年」という言葉まで生まれた。民博には,京大の卒業生も多く勤務している。まったく縁がない,というわけでもない。京大博物館も,民博の展示を参考にしようと考えないではなかった。しかし,規模,内容があまりにもちがいすぎた。みずからの身にあった展示をしようとすると,民博の展示は参考にならないことに気がついた。
 博物館の建設ブームは,その一方で,展示にたずさわる業界を産業界のなかに育成するという役割も担っていた。博物館の展示場の建設を担当した会社には,展示に関する膨大な技術が蓄積されていった。その技術をいっそう開発し,体系化するために,1982年に日本展示学会が発足した。展示学は,技術学の一分野として確立されるまでに成熟していったのである。
 大学博物館も,その技術力をじゅうぶんに取り入れなければならない。京大総合博物館では,展示の基本設計の立案にあたって展示の専門業者に協力を依頼した。民博の展示を施工した経験をもつ業者が設計の立案に参画してくれた。大学側がアイデアのアウトラインを提示し,それを業者が具体的なイメージに仕上げる。大学と業者の見事な連携プレーが展開された。こうしてできあがった設計にもとづき,別の業者が施工をおこなった。展示の予算が認められてから竣工まで,わずか1年と少ししかなかった。しかし,短期間の内に設計業者も施工業者も我々の意図をうまく引き出し,よく反映した展示をつくってくれた。開館後の展示に対する各方面の評判はすこぶるよい。これも日本の展示業界のレベルの高さを示すものであろう。
 「一ツの工事(仕事)に二人の番匠,これにもさせたし彼にもさせたし,那箇(いずれ)にせんと上人もさすがにこれには迷われける」とは,幸田露伴の『五重塔』の名場面。しかし上人の悠長さとは正反対に工事についてあれこれ考えあぐねる時間的余裕さえなかった我々を展示業界の技術力が見事にカバーしてくれたのである。露伴の一節をもじれば,京大総合博物館の展示は,大阪の業者これを造り東京の業者これをなす,ということになろう。
(京都大学 総合博物館長)