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収蔵資料散歩
濬田耕作と国府遺跡資料
山中一郎

 本館が所蔵・保管する考古資料は,20万点とも,30万点とも数えられるが,総量を取り上げるまでもなく,個々の資料として日本の考古学史を語るときに大きな意味をもつものが多い。京都大学の考古学教室は,「日本の近代考古学の父」と呼ばれた濱田耕作によって創始されたのであるが,その濱田の資料重視の学風が収集された考古資料に色濃く反映されている。大日本帝国に唯ひとつ存在した大学制度のなかにおける考古学の教育機関に対して,基本的な考古資料を収集するのに濱田は努めたのである。

 濱田が「第一等資料」と格付けした発掘調査によってもたらされる,研究目的から帰結される情報をともなった考古資料を,その収集資料の骨格に置いたのは当然のことであった。ところで開設された考古学講座の経費を用いてすぐに濱田が着手した発掘調査のひとつが,今日の大阪府藤井寺市にある国府(こう)遺跡の調査である。

 考古学の調査が始められるきっかけの多くは,古今の東西を問わず考古遺物が拾われることにある。濱田の眼前にあったその採集された遺物とは,ここに写真で示すサヌカイト製の石器であり,調査報告書に正式に出されて以後,数々の引用をみてきたところである。京都大学文学部博物館が一般公開されてからは,展示ケースの一角を占めてきた。その展示に比較資料として並べられているように,この石器は濱田の時代からヨーロッパの前期旧石器時代の指標石器である両面調整石器(ハンド・アックス)によく似ているとみなされた。もしもこの類推が正しいとすれば,日本列島にヒトが住み始めた年代は,土器の出現するよりもずっと古いときまでさかのぼりうると考えられた。当時としてはそうした意識は薄かったと思われるが,「ナショナル・アイデンティティ」の形成に寄与することに結果的になる調査であった。あるいは今日的にいう「ジャーナリスティック」な調査とも,いうことができよう。

 日本における考古学の開始期でなかったならば,この採集資料から旧石器時代の遺物を得るための発掘調査はなかったともいえる。その表面の風化度が進んでいないことがネガティブの判断をさせる根拠となろう。石器の風化度をその古さの推定根拠にすることから蓋然性の高い結論を引き出せるかどうについては議論があるが,そうした議論が日本考古学で盛んにおこなわれるのは,いわゆる「ねつ造」事件の後で,”前・中期旧石器時代”の「資料」の出土の仕方の不自然さを指摘しようとしてのことである。少なくとも,「旧石器発見」の目的も濱田の調査の方向で,岩宿遺跡の発見以後に国府遺跡が鎌木義昌によって再調査されるのは,この石器の存在がひとつの根拠をなしていると,考えることができる。鎌木の調査は,幸運にも残っていた,今日でいう低位段丘堆積土を掘りあてることができて,先土器時代(縄文時代より古い時期を日本考古学では誤ってそう呼んだ)の石器資料を得た。代表的な石器は「国府型ナイフ形石器」であり,それを作り出すための石の割り方はきわめて特徴的であるゆえに,「瀬戸内技法」と名付けられた。そして先土器時代の研究や,旧石器の製作技術の研究が進められていくうえで大きな役割を果たすのである。

 濱田自身の調査は,鎌木のそれに比べると運がなかったことになる。「ハンド・アックス」に引きずられて,後期旧石器である,日本における独創的な資料を見落としたというのでは決してない。残っていた低位段丘堆積土に巡りあわなかったばかりでなく,おそらくは,深く掘り込まれた谷部が埋没してしまった地点に当たったのであろう。該当する時期の土層が侵食を受けたことによって遊離させられてしまった石器資料が,新しい時期の堆積土から見つけられることもなかった。しかし濱田は,思いがけず,別の時期の資料に遭遇した。縄文時代の遺跡を掘り出すことになった。しかも考古学資料だけではなく,ほぼ完全に近い埋葬人骨を得ることになったのである。濱田はただちに形質人類学者の研究参加を要請し,ここにわが国で初めての考古学と他の科学の共同研究が実行された。埋葬人骨資料は切り取られて,大学に運ばれ収蔵資料とされた。実物資料を遺跡から切り取る例としても,わが国における最初の例といえる(写真参照)。


切り取られた埋葬人骨資料



国府遺跡から採集されたサヌカイト製石器

 考古学の調査は,他のいかなる研究におけると同じように,実施する目的をたてるにあたって,「予見」をもって始められる。目論見とでもいっておこう。濱田のそれもまたそうでしかなかったであろう。しかし濱田の偉大さは,その当初の目論見が外れたときの対応の仕方に認められる。予想外に眼前に姿を現わした考古資料を,当時の学術的処理の最良の仕方で成果に結びつけるのである。

 凡人は「予定した」過程を突き進む,あるいは突き進もうとする。そこで新しいものを作り出す絶好の機会であることを見つけだすのは,なかなか難しいのである。本館が所蔵する国府遺跡の資料を,それを巡った濱田の思考に重複させて考えてみるとき,著者は常に,考古学への対応をこえて,人生の生き方への教訓を得る,「散歩」に引きずり込まれるのである。

(京都大学総合博物館教授・考古学)