企画展『今西錦司の世界』の開催にあたって


瀬戸口烈司


 今年(2002年)1月6日は、今西錦司の生誕百周年にあたる。これにあわせて総合博物館の平成13年度秋期企画展『今西錦司の世界-京都大学のパイオニア・ワーク-』が、昨年12月から開催されている。
 今西生誕百周年に向けて何かの行事をやろう、という学内の動きは2年ほどまえから本格化した。一昨年(2000年)に学内総長裁量経費(教育改善推進費)による「今西錦司生誕百年事業」(代表者:松澤哲郎霊長類研究所教授)を企画した。申請書類を大学本部事務局に提出したのが同年夏で、予算化が決定したのが初秋であった。
 これとは別に、戦前に今西が隊長としておこなった『大興安嶺探検』の記録写真が隊員であった吉良龍夫の手元に保管されており、京大総合博物館に引き取ってほしいと連絡があった。だが、博物館で永久保存するためには、写真類を 245 x 335 mm の国際版に焼き付け、同時に画像情報をデジタル化する必要がある。
 松澤と相談して、とりあえず、そのうちの50枚を国際版に焼き付け、保存する処理として、上記「百年事業」から費用を捻出した。そして、これらを総合博物館で保管することにした。
 2000年度の年度末、2001年2月に、「今西生誕百周年記念」のシンポジウムを開催したところ、芝欄会館の狭い会場に100名以上が参加するという、予想以上の大盛況となった。このシンポジウム開催と並行して、平成13年度京都大学教育研究振興財団の学術研究活動推進事業助成によるシンポジウム「21世紀へのフィールドワーク」(代表者:松林公蔵東南アジア研究センター教授)を申請したところ、これも実施が認められた。
 2001年2月のシンポジウムでは、吉良の手元に保管してあった『大興安嶺探検』の記録写真を紹介しつつ、探検家としての今西像を語った。そして主要な写真類を国際版に焼き付け、総合博物館で保存の予定であることも付け加えた。この件は、すぐに京都新聞で紹介された。テレビ局の反応もすばやかった。NHK京都放送局の記者が取材に訪れ、同探検の記録写真の保存の重要性を強調したレポートを作成した。これは、NHKニュースの全国版で放映された。その放送記者は、吉場久之と名乗った。おどろいたことに、久之は吉場健二の遺児であった。
 吉場健二は、本多勝一とともに京大に学生団体の「探検部」を全国にさきがけて作り、「探検部」の海外遠征隊の第1号となる「東ヒンズークシ学術探検隊」(隊長:藤田和夫大阪市立大学助教授[当時])に本多とともに参加した。大学卒業後はそのまま理学部動物学教室の大学院に進み、サル学の伊谷純一郎の第1号の弟子となる。1967年に霊長類研究所が設置されると、ただちに助手として採用され、インドやボルネオで野生霊長類の観察をすすめた。1968年7月28日、宮崎県幸島のサルを観察にゆく途中、日向灘で小舟が転覆して33才の若さで遭難死した。今西の「探検」と「サル学」の両面を引き継いだ若手第1号は、吉場健二であった。30数年を経て、吉場健二の遺児が、吉場健二の活動のルーツというべき今西の探検記録の取材に現れたのである。
 私は在学中は探検部員であった。霊長類研究所に17年在籍した後、理学部に転じた。吉場健二には、1963年夏に一度だけ会った。吉場健二は、私には偉大な先輩であり続けた。その遺児が目の前に現れた。これは、きわめて私の「個人的」な事情にはちがいない。しかし、このことが、2001年の秋期企画展を今西錦司関連の展示にしようと決心する契機になったことも事実である。
 2001年2月のシンポジウムの準備の過程で、京大学士山岳会の活動の記録フィルムが散在していることがわかり、平井一正(神戸大学名誉教授)を中心にして、それらを結集し、ダイジェスト版を作成する案が浮上した。先にふれた探検の記録類の保存問題も深刻である。これらを修復・保存し、活用する道をつけることが急務であり、これこそ京都大学総合博物館の果たすべき任務であると痛感した。
 これらはすべて、「今西生誕百周年記念事業」の一環に位置づけ、保管・活用を博物館の業務に組み込むという案が真剣に討議された。2001年度の学内総長裁量経費(教育改善推進費)に「企画展示 『今西錦司の世界』-京都大学のパイオニア・ワーク-」、教育基盤整備充実経費に「今西錦司関連写真・映像資料の収集・整備経費」を申請し、これらはともに認められた。
 今西関連の展示をすることになったいきさつは、いささか唐突のようではあるが、下地はすでにできていた。2001年6月にオープンした展示場のなかの常設展示のメーンテーマは、「京大の野外研究」、すなわちフィールドドサイエンスである。これは、京大の野外研究の伝統とその成果を公開・展示し、その魅力を知ってもらう、というのが基本理念である。今回の企画展示は、常設展示のメーンテーマである「野外研究」のルーツをさぐる、という意味もあわせ持つ。
 では、どうして「野外研究」が常設展示のメーンテーマに選ばれたのか。
 京大の総合博物館が一般公開されたのは2001年6月だが、博物館組織が文部省(当時)に認められ、河野昭一を初代館長として専任教官9名、事務官5名で発足したのは1997年4月であった。京都帝国大学が設置されたのは1897年であるから、その年はちょうど京大創設百周年に当たっていた。総長井村裕夫の発案もあって、1997年秋には京大創立百周年記念展が開催された。会場の一つには、旧文学部博物館(現総合博物館の本館部分)が使用された。ここでは、学内の各学部、各研究所の履歴・活動の目玉のほか、ノーベル賞など国際賞の受賞者、文化勲章受章者を紹介するとともに、生態学、霊長類学、地質学・古生物学、栽培植物学など、京大の多彩な野外研究も紹介された。その多くに今西と関わりのある人々が貢献していることが印象的であった。
 この百周年記念展は、「京大らしさ」を浮かび上がらせるにあたって、たいへんに効果があった。野外研究の伝統がすごい迫力をもって、観る人を魅了した。京大が生態学や霊長類学をはじめとして世界各地で展開している各分野の野外研究の成果を開示することを常設展示の主眼にしようとする目論見に、われわれはこの時点ではっきりとした自信を得たのである。
 これが企画展『今西錦司の世界』が行なわれるに至った背景である。どのような内容のものにするかにあたっては、今西をよく識る京大学士山岳会員の斉藤清明にプロデューサーとして協力を得た。京大が「探検大学」という異名をとるほどフィールドサイエンスの分野に大きな足跡を残した巨人『今西錦司の世界』をじっくりと観ていただきたい。
(総合博物館長)


大興安嶺探検隊
谷地坊主湿原で難行する馬車
ガン(根)河下流
(中華人民共和国内蒙古自治区)
[1942年5月撮影]