研究ノート

東大寺前身寺院の発見

吉川真司

 知名度という点から言えば、東大寺は全国の寺院でもトップクラスに位置するはずである。「奈良の大仏」の偉容に感嘆し、大仏殿の柱に穿たれた「鼻の穴」をくぐった人も多いことだろう。しかし、大仏殿だけを見ていては東大寺の歴史はわからない。二月堂・三月堂が建つ上院地区は、お水取りや天平仏で知られているが、寺内でも最も高所にあるこの一帯にこそ、東大寺誕生の謎をとく鍵が秘められているのである。

 私自身が上院地区の重要性に改めて気付いたのは、「東大寺山堺四至図」という奈良時代の絵図を研究しはじめた時であった。この絵図は天平勝宝8歳(756)に、東大寺の寺域を定めるために作成されたものである。299cm×223cmの巨大な画布には東大寺伽藍のみならず、春日の山並みが見事に描き出されていて、「山の絵図」という印象を強く与える。そして春日山に建立された山林堂宇群―二月堂や三月堂もその一つである―が、東大寺の重要な構成要素であったことがしっかりと感得されてくるのである。東大寺はこのような山林寺院として出発した。絵図にいくつもの建築物が描かれている上院地区こそが、東大寺前身寺院=金鐘寺の故地であるとする通説は、とても説得的なものに思えた。

 「東大寺山堺四至図」の読み解きに熱中した私は、奈良県に住んでいる利を活かして、しばしば現地を踏査した。図に描かれたエリアは東西3.8km、南北3.4kmもあるが、2・30回も行くうちに全域を踏破できた。特に綿密に歩いたのは東大寺伽藍地である。奈良時代の絵図に描かれた山や小川が今も現地比定できるのは驚きだったが、そのうち「経房」と書かれた施設が気になりだした。これは写経所のことらしく、図によれば、上院地区から谷一つ隔てた北側の山丘にあったと見てよい。著名な正倉院文書を遺し、活動がリアルに復原されている造東大寺司写経所。その位置をぜひ突きとめたいと思った。

 1994年2月、ここぞと思われる山丘を調査した。食堂跡の東、丸山という山の西斜面である。いくつかの平坦地があって、古代瓦の小片がころがっていた。この辺が写経所なんだなと納得して帰った。翌1995年6月、菱田哲郎氏(京都府立大学)を案内しがてら、また同じ山丘を踏査した。その前夜、地図を眺めていて、去年歩いた場所の上方に東西50m・南北90mの巨大な平坦地があることに気づいていた。期待に胸ふくらませて急斜面を遡上すると、突如がらんとした広場に出た。問題の大平坦地である。直観的に古代遺跡だろうと思ったが、やがて菱田氏が興福寺式軒瓦を採集するに及んで、それは確信に変わった。

 さらに7月、2人に加えて、東大寺を発掘しておられた平松良雄氏(橿原考古学研究所)を誘って、大平坦地周辺をじっくりと見てまわった。やがて我々が目にしたものは、まさに累々たる古代瓦の散布であった。信じられない思いがした。後日わかったことだが、95年前後の冬は鹿の食料が少なかったらしく、彼らは木の根を食べるために斜面を掘り返し、大量の瓦を地表に露出させてくれたらしい。発見は鹿のおかげだったのである。

 それからというもの、東大寺に許可をいただいて、何度も遺物採集に出かけた。散布する軒瓦のほとんどは興福寺式で、東大寺創建よりも古い。朱が付着したものも見つかり、堂宇に葺かれていたことは確実となった。つまりここには東大寺の前身寺院が存在したことになる。当初はこの「東大寺丸山西遺跡」を福寿寺の跡だろうと考えていた。福寿寺もまた東大寺前身寺院の一つであるが、金鐘寺よりもやや新しい。金鐘寺は南の上院地区にあったという先入観に縛られていたのである。しかし、文献や瓦を念入りに検討していくうちに考えは逆転し、丸山西遺跡=金鐘寺跡、上院地区=福寿寺跡、という評価に落ち着いた。私たちは神亀5年(728)に聖武天皇が創建した、最古の東大寺前身寺院の遺跡を発見したものと思われる。そう言えば、聖武はその2年前に興福寺東金堂を造営している。この組織を転用したと考えれば、興福寺式軒瓦が使われていることにも説明がつく。

 1999年夏以降、科学研究費が支給されたので、数度にわたって丸山西遺跡の測量調査と地下探査を行なった。遺跡の現地形は大縮尺で図化された。またレーダー探査と電気探査はほぼ同じ結果を示し、大平坦地の地下に、大規模な建物遺構が埋もれているらしいことは確実になった。電気探査のデータ解析結果を見るたびに、ついにここまで来たか、との感慨を禁じ得ない。私たちは発掘調査を行なっていないが、掘らないでもかなりの知見を得ることができたのである。ただ、文献面での検討はまだ進める余地がある。写経所の正確な場所も知りたい。しかし何より、この遺跡を日本古代の政治史・宗教史上にどう位置づけるかという、困難な課題が待ち受けている。すべてはこれからなのかも知れない。

 自慢話めいてしまったのは本意でない。今どき発掘調査とは無関係に古代寺院が発見されるのも珍しかろうと思い、経緯を書きとめてみたのである。私が東大寺丸山西遺跡にかかわった時期は、博物館在任期間とかなり重複していた。フィールド調査を重視する雰囲気が研究の追い風となったのは、疑いないことと思っている。調査をお許しいただいた東大寺、協力して下さった多数の皆さんにお礼申し上げるとともに、もう過去の職場となってしまった総合博物館に対しても、感謝の微意を表したいと思う。

(京都大学大学院文学研究科助教授・日本古代史)


図1 大平坦地(東から)


図2 瓦の散布と鹿の掘りあと