収蔵資料散歩

琉球進貢船図屏風

岩崎奈緒子


「琉球進貢船図屏風」
京都大学総合博物館蔵


京大本:
左上に見える落平(うてぃんだ)


「琉球貿易図屏風」
滋賀大学経済学部附属史料館蔵


 中央に「奉旨帰国」という旗を掲げた中国風の船。岩壁にはそれを迎える人々。「琉球進貢船図屏風」(上左の写真)は,琉球が中国に派遣した進貢船が帰国し,にぎわう那覇港の様子を描いたものである。絵図には,鹿児島藩の武士,城(ぐすく)とよばれる琉球独特の構築物や爬竜船の競漕行事など,近世日本の支配をうけつつ,対外的には独立した国家として中国との朝貢関係を結んだ近世琉球の風俗が凝縮されている。
 長い間博物館の収蔵庫に眠っていたこの屏風の存在について,前任者吉川真司文学研究科助教授から教示を受けたのは,二年前,滋賀大学の所蔵する類似の屏風の成立過程を調べていた頃だった。画像中央に進貢船,左側に那覇港,右側に首里城と城下町を配した構図の屏風は,現在,滋賀大学経済学部附属史料館蔵「琉球貿易図屏風」(下の写真)と浦添市美術館蔵「琉球交易港図」,それに,沖縄県立博物館蔵「首里那覇港図」が知られている。とくに前二者については,細部の描写がよく似ていることから,同じ工房でつくられたものではないかと推定されている。本館の「琉球進貢船図屏風」は,描写の対象や手法を見る限り,滋賀大本・浦添本の系統に属するものであり,第三の屏風の出現ということになる。
 本屏風の成立を知る唯一の手がかりは,画面左上の二つの樋である。サバニと呼ばれる小さな船に桶を載せて水を汲んでいる様子は,滋賀大本・浦添本にも描かれている。現在は埋め立てられて当時の様子をうかがうことはできないが,「落平(うてぃんだ)」(上右の写真)と注記されたこの樋は,港を出入りする船のみならず,那覇の住民にとっても大切な水汲み場であった。もともと一つだった樋が二つに増設されたのは1807年のこと。『琉球国碑文記』には,一つしかない樋をめぐって争いがたえなかったために,この年に新たな樋が建設されたことが記されている。したがって,この屏風の成立は1808年をさかのぼるものではない。
 では下限はいつか。浦添本の元の持ち主が琉球で屏風を入手したのが遅くとも1887年頃。それが下限とされてきたが,近年,滋賀大本の修復の際に,屏風の中から薩摩藩江戸藩邸の文書が発見された。近世後期,1830年頃の諸々の支払いに関わるいくつかの帳面を解体したもので,この発見により,屏風製作に薩摩藩が関与していたことが傍証されている。そこで,屏風の製作は江戸時代にさかのぼるという仮説をたてたのだが,京大本の出現で,まだまだ検討する余地のあることが明らかとなった。
 というのも,浦添本にも滋賀大本にも画面右上に詳細に描かれている首里城が,京大本にはないのだ。琉球王府の拠点,琉球の象徴ともいえる首里城がなぜ描かれていないのか。三つの屏風を比較すると,他にも描写の小さな異同はいくつかあって,これもその類いと解釈するのも一つの考えだが,屏風製作に薩摩藩の関与を想定すると,琉球国王の居城の欠落は意味が大きいように思われる。あるいは,同じ工房の製作という前提を考え直す必要があるのかもしれない。
 昭和の初め頃に購入したという記録が残るのみで,詳細が不明のこの屏風をあえて紹介したのは,先の戦争で多くの歴史資料が失われた沖縄にとって,貴重な資料が新たに付け加わることになると考えたからである。多くの方の目に触れることによって,今後の研究が進展することを切に願っている。

参考文献

謝敷真起子「琉球交易港図考」『きよらさ』18・19号,1998年.
岩崎奈緒子「『琉球貿易図屏風』の成立について」(滋賀大学経済学部附属史料館『研究紀要』34号,2001年.

(総合博物館 助教授・日本近世史)