研究ノート

アンドレ・ルロワ=グーランの日本留学

山中一郎


 「現代知性の喪失」との大見出しで、アンドレ・ルロワ=グーランの1986年2月19日の死去を、フランスの有力紙である『ル・モンド』は報じた。ルロワ=グーランは1911年の生まれであるから、そのときはコレージュ・ドゥ・フランスの教授を退いていたが、1964年以来毎夏続けていたパリ近郊のパンスヴァン遺跡(11000年前のトナカイの狩猟場址)の発掘調査の指揮は、なおとりつづける現役であった。それに加えて、1960年代に完成をみた旧石器美術の研究もあって、ルロワ=グーランは先史学者とみなされていた。しかしその学問形成の歩みのうえでは、レヴィ=ストロースとともに構造主義人類学を担った民族学者と考えられもした。
 ヒトが自然のなかで自然に働きかけることで生の営みを繰り広げてきたと考え、その営みのために駆使した道具と身ぶりの総体を「テクニーク」と定義する。そのテクニークは一定の時間の経過にともなって具現化される。それはヒトの行為を構成する動作連鎖(chainee operatoire)によって具現化されるといえる。この考え方をもって、発掘調査で得られたデータから過去のヒトの行為を読みとる作業を基礎とする、今日のフランス先史学のひとつの大きな傾向が成立している。ルロワ=グーランの発想から出発する研究の進展をみることができる。そのうえに、フランスの哲学者たちも、ルロワ=グーランの思想を論じる研究集会を開催するに至っている。
 学校教育こそ小学校の4年で終わらざるをえない事情があったにせよ、ルロワ=グーランは、マルセル・モースの講義を聴講し、1930年代に誕生したばかりの民族学の研究に身を投じた。パリのエッフェル塔のセーヌ川を挟んだ対岸のトロカデロの丘の上に新しく人類博物館が建てられ、その「極北の民」のセクションの展示を担当することになる。そして展示を見事に仕上げただけではなく、『トナカイの文明』を1936年に著して、トナカイという自然環境の一部に関わって生の営みを演じたヒトを時・空間の軸上への体系化を試みた。そのとき25歳にして、研究者としての確固たる地位を得たのである。
 そして1937年から39年に日本政府奨学金留学生として来日する。専攻は日本民族学であったが、実は先の「極北の民」の展示を仕上げる作業では、ルロワ=グーランはフィールドに立つことはなかった。ロシア語、中国語は修得していたが、日本語の勉強はしていなかった。テイヤールド=シャルダン神父が予定していた中国大陸での考古学の発掘調査に加わることになっていたが、日本の進出のために中止のやむなきに至った。そのかわりに日本の土を踏むことになったのであるから、人の運命は分からない。しかしフィールド科学にあっては、フィールドに立つことが研究者への道の必然の過程となる。 日本からフランスに戻った1939年は、ドイツとの戦争のために研究に没頭することを許さなかった。とくに日本など旧敵国を取り扱う記述は戦後もしばらくのあいだ禁じられたのであるが、日本での勉強の成果を見事に結実させた『人と物質 進化と技術』、『環境とテクニーク 進化と技術』を1943年と45年に著した。これはその後1964年と65年に、『身ぶりと言葉 技術と言語』、『身ぶりと言葉 記憶とリズム』への発展をみて、ライフ・ワークが完成させられる。日本滞在はルロワ=グーランの学問形成に極めて大きな役割を担っている。
 ルロワグーランの歩みについては、フランス文化省のフィリップ・スリエ氏が研究を進めている。昨年秋には京都に見えて、その概要を講演してくれた。またルロワ=グーランが帰路の船内でほぼ書き上げた『日本民族学』の原稿は、未亡人と筆者の友人であるジャン=フランソワ・レーブル氏の手で校訂されて、近くグルノーブルのジェローム・ミヨン社から出版される。書名はAndre LEROI-GOURHAN; Pages oubliees sur le Japon (日本についての失われた頁)だという。
 ルロワ=グーランの日本研究を知ることは、彼の学問形成を理解するのに避けられないが、日本文化を把握するについても大いに資するとことがある。「日本そば」のうちかたに通じるだけでも、あるいは「日本の農村の行事」にだけ興味を寄せたとしても、当時のフランスでは民族学者の列に加わることはできた。しかしルロワ=グーランはより難しい歩みを選択した。「たとえ自分自身が明日倒れたとしても、その方法で他の誰かが受け継いで作業を進めることができる、より体系化した日本民族学を打ち立てようと考えた」、と語っている。スリエ氏やレーブル氏の仕事が出版されるのが待たれるのである。さらに、そうした未定稿のほかに、ルロワ=グーランは1000枚をこえる日本の写真を残している。未亡人に協力して、筆者がこれらの写真を整理して、順次刊行しているところである。Le Japon vu par Andre LEROI-GOURHAN 1937-1939であり、すでに第1巻から第3巻までを出版した。残る2巻に京都で撮影された写真を収録する予定である。
これらの写真は65年前の日本の姿を伝える貴重な資料であるが、そこにルロワ=グーランという民族学者の視点を窺うことができ、生きる営みを自然のなかにおけるヒトの自然への働きかけであるとするユニークな眼を通した見方を学ぶことができる。
 なお、このれらの写真はCD-Rom化して保存することにしているが、総合博物館にも寄贈される。
(京都大学総合博物館教授・考古学)


北海道旅行も終わりに近づいた。買い入れた荷物がますます大きくなっていった。1938年8月末、北海道平取町・二風谷にて。