収蔵資料散歩
陸水生物学者,動物生態学者,画家
- 川村多實二先生の遺品 -
成田哲也 川村多實二先生は、日本の陸水生物学および動物生態学の創始者、「陸水学」の名付け親である。理学部付属旧大津臨湖実験所の創始者の1人で、その初代所長であった。
川村先生の遺品が旧大津臨湖実験所の「官舎」に長らく保管されていた。官舎とは、川村先生が在任中から退官後もしばらく住まいした木造洋館風の建物で、旧大津臨湖実験所の敷地内にあった。1991年に大津臨湖実験所が廃止されて生態学研究センターに組み込まれた。生態学研究センターが大津市下阪本から大津市上田上平野町への移転時に官舎は取り壊された (1998年)。川村先生の遺品は箱に詰められて図書室の片隅に置かれていた。2002年7月、京都大学総合博物館にその遺品を移管したので、その内容物品との略歴について簡単に記しておきたい。川村先生の経歴については、上野益三(1964, 1971)に詳しい。
川村多實二は、1883年岡山県津山市の生まれ。1903年から第三高等学校。川村は絵画に興味があったようで、この時期に洋画家浅井忠(号黙語)(1856-1907)の聖護院洋画研究所に通い、本格的な指導を受けた。浅井の没後出版された畫集3巻(黙語図案集、黙語日本畫集、黙語西洋畫集;明治41~43年刊)が遺品に残されている。
1906年から3年間を東京帝国大学理科大学動物学科の学生として過ごした。卒業論文はクダクラゲの分類学研究を行い、見事な彩色図を描いたとされている。残念ながらその時の彩色図はないが、ミズダニの分類をしたと思われる彩色図およびスケッチが 残されている。これら彩色図は、そのままカラー図鑑の原図として使えるほど緻密なもので、すばらしい絵画の才能も持ちあわせていたことが見てとれる。
1912年に京都帝国大学医科大学に移り、石川日出鶴丸教授のもとで生理学の研究を始める。しかし、石川が念願していた淡水生物の研究を行う医科大学付属臨湖実験所が大津市の琵琶湖畔にできることになり(1914)、その筆頭所員として設立運営に尽力するとともに、あたらしい研究分野である野外生物学に取り組んだ。その成果も入れて、1918年に「日本淡水生物学」(上下巻)を著した。この本により日本の陸水生物学は大いに進歩することになった。遺品の中にある上下巻を合本したものには、多くの書き込みがあり、また新しい情報の切り抜きが貼り付けてある。改訂版を意図していたとおもわれるが、実現しなかった。1915年8月に、石川と共に日本で初めての臨湖実習会を開いた。プランクトンの検鏡実習などを行わせたが、この時に使用したとおもわれる手書きのプランクトンの大判絵図がある。日本ではじめてのプランクトン絵図であろう。
2年間の欧米留学後、1921年に京都大学理学部生物学教室、動物生理生態学講座教授に着任。日本語で書かれた初めての体系的な動物生態学の本である「動物生態学」(1931,「岩波講座生物学」)を執筆した。この本の中国語訳本、「動物生態学」舒貽上訳(1931)が遺されている。
後年、川村は鳥の囀りについて研究し、、退官後「鳥の歌の科学」(1947)を著している。その基になった鳥の鳴き声を表した資料などが保存されている。また、動物の心理にも興味を持っていたようで、「心の進化」(1947)を著しているが、その資料も残されている。
絵画に習熟していた川村はいくつかの絵を遺している。「日本淡水生物学」下巻(写真)は、生態学研究センターに保存されている。また、1915年に来日した、カルカッタ博物館長Annandaleの調査に同道した折りに描いた中国太湖の水彩画もセンターにある。遺品の中には、琵琶湖の雄松浜を湖上から観て描いた川村の作と思われる油絵があるが、銘はない。さらに、宮地伝三郎が川村から個人的に贈られた色紙が1枚。大津臨湖実験所70周年(1984)に際し、宮地が大津臨湖実験所に贈ったものである。美術への深い造詣から、京都大学を退官後、川村は京都市立美術大学の学長を務めている(昭和32年5月~38年5月)。
(生態学研究センター助手・陸水生物学)
引用文献
上野益三(1964) 大津臨湖実験所五十年 その歴史と現状.
「琵琶湖沿岸帯堆石下面の生物」[左:生態学研究センター蔵(水彩)には、カイメン、ウズムシ、ヒル、コケムシ、巻貝、ヨコエビ、水生昆虫など多くの淡水動物が描かれている。右4点はミズダニの彩色画[総合博物館蔵(水彩)]。
|