研究ノート

ロンドンの自然史博物館

本川雅治


 私は平成13年度文部科学省長期在外研究員として2001年11月から2002年10月までの1年間,イギリスのロンドンにある自然史博物館で「東アジア産小型哺乳類の種分化と系統分類に関する研究」というテーマで在外研究を行う機会を得た.自然史博物館は,大英博物館自然史部門を前身とする250年ほどの歴史をもつ世界的に最も著名な博物館の一つである.私は哺乳類の系統分類学の研究を行っているが,これから述べるようにその研究上,そしてまた大学博物館で標本管理を行う立場という2つの点から訪れたいと思っていた博物館であった.
 今回の主な目的は東アジアの哺乳類標本,特にモグラ類,トガリネズミ類,アカネズミ類を形態学的に調査することであった.具体的には,自然史博物館に収蔵されている頭骨や剥製標本を,肉眼あるいは実体顕微鏡下で特徴を調べたり,各部位をノギスで計測したり,博物館のラベル情報を書き写したり,それらの写真を撮ったりするのである.毎日,カバンにノート,鉛筆,ピンセット,ノギス,時々はカメラを入れて,家から自然史博物館へと出かけて行った.最近の系統分類学では遺伝子を調べることも多いが,そんなこととは無縁の,古くさい方法の研究である.
 私が取り組んだのはいずれも混乱したグループの種分類の再検討である.標本のラベルに書かれた学名が正しいとは限らない.例えばAとBとされている種が実は同じ種かもしれないし,AとBの一部が同じ種でBの残りは別の種,またはAの一部とBの一部,Aの残りとBの残りがそれぞれの種なのかもしれない.したがって,分類を見直すには結局一つずつの標本について詳しく調べていくことが必要である.先の見えない手探り状態でも,とにかく一つずつ標本の観察や計測を行い,その過程で部分的にでも分類体系を見直し,それらを踏まえて標本を見直す,こうした作業の繰り返しによって,はじめて適当な分類体系を再構築することができるのである.今回調べた中には1000点以上の標本調査を含むテーマもあった.標本を一つずつ見ていくというと気の遠くなるような反復作業と思われるかもしれないが,実際には数を見ていくにつれ,まるで標本が語りかけてくるかのようにいろいろなことがわかってくるのである.
 さて,東アジアの標本を調べるのに,なぜイギリスに行くのかという疑問があるだろう.哺乳類では20世紀初頭のまだ日本や東アジア各国で哺乳類の研究が行われていない頃,イギリスのベッドフォード侯爵が東アジア動物探検と題して,採集人アンダソンらを日本,朝鮮半島,中国,ロシアなどに派遣し,膨大な数の標本を収集し,それらを自然史博物館のトマスに研究させたのである.トマスは数多くの新種や新亜種をこれらの標本に基づいて記載し,そうしたタイプ標本のほぼすべてが自然史博物館に収蔵されている.タイプ標本はそれぞれの学名の基準となる唯一の標本であり,分類の混乱したグループの種分類の研究にはタイプ標本の調査が不可欠である.ベッドフォード標本はタイプ標本もそうでない標本も,まもなく100年が経とうとしているのに完璧に近い良好な状態で保存されている.また,自然史博物館にはその他のイギリスの調査団によって採集された,あるいは日本人研究者が寄贈した東アジアからの哺乳類標本も収蔵されている.後者には,戦前に日本の哺乳類分類学の研究を精力的に行った黒田長礼氏のものも含まれている.彼の標本のほとんどは戦争により消失していて,その意味で自然史博物館に貴重なものが含まれることも今回の調査で明らかになった.
 さて,自然史博物館での標本はどのように管理されているのであろうか.すでに述べたように哺乳類の多くの標本は剥製と頭骨で,10階建てほどの建物の各階に分類群ごとに収蔵されている.一方,一部はホルマリンやアルコールに液浸標本として保存され,同様の他の脊椎動物などと一緒に新設のダーウィンセンターに収蔵されている.このダーウィン・センターは2002年9月から一般公開もされ,一般客が研究標本の一端を見れるようになった.ところで,日本の博物館について標本の保存が適切でないとよく言われ,何世紀にもわたって保存されているロンドンの自然史博物館をはじめとするヨーロッパの博物館と比較される.では,日本の博物館がどのように標本を収蔵するのがよいのかについて考えてみた.すると,日本には標本を破壊する要素がヨーロッパと比べて格段に多いことに気づく.強い太陽光と紫外線,高湿度,温度の年較差(これらは1年間の生活で身をもって感じた),害虫の高い発生率,地震などである.つまり,日本の博物館はヨーロッパのまねをするだけではなく,より適切な保存環境の維持や収蔵方法を新たに開発することも必要なのである.さて,京都大学総合博物館ではすでにいくつかのアイデアが標本収蔵室の設計や運営に反映されている.今回,自然史博物館で見てきたことがその改善や改良に大いに役立つものと確信している.


(上左)19世紀に建設された自然史博物館
(上右)21世紀に新設されたダーウィンセンターの外観
(下左)2002年9月より一般公開されているダーウィンセンター第1期へのエントランス
(下右)植物昆虫標本を対象に第2期が計画されている。

(総合博物館助手・哺乳類分類学)