研究ノート

版行地図と読者


 今回取り上げたのは,版行地図とその利用者―ここでは広い意味で「読者」としておこう―の関係である。地図内の情報が享受される過程については,いまだ不透明な点も多いのが現状であり,小稿はこの点を考えるための手がかりをつかむ作業である。
 江戸時代に版行された地図は,どの程度庶民の手に届いていたのか。この点を知るために,小野田一幸氏の最新の成果をもとに,京都図をはじめとする版行地図の値段を示した(表1)。

表1 林氏吉永版行地図の価格
地図(名称)
元禄9年(1696)
宝永6年(1709)
正徳5年(1715)
備 考
1 京之図6分6分6分 
2 同大絵図1匁3分3匁3分4匁3分新撰増補京大絵図(貞享3)および系統図
3 内裏図1匁3分1匁3分1匁3分 
4 世界之図5匁5匁5匁 
5 同小之図1匁1匁1匁 
6 日本之図2匁2匁2匁本朝図鑑網目(貞享5・元禄2)
7 江戸図8分8分- 
8 大坂之図1匁--新撰増補大坂大絵図(貞享4)
9 日光之図1匁5分1匁5分1匁5分 
10 鎌倉之図8分8分8分 
11 伊勢之図1匁5分1匁5分1匁5分 

なお,当時代表的な版元であった林氏吉永の図のみを掲げてある。表のうち,2番目の図(「新撰増補京大絵図」と推定されている)の価格だけが20年間で3倍以上に高騰し,世界図と同等近くにまでなっている。それだけ需要があったからとも考えられるが,正確なところは不明とせざるを得ない。ただ,他の図の値段に全く変化がないことからみても,この図が特別の扱いを受けていたことは明らかである。いずれにせよ,ここでは京都図をはじめ,多くの刊行図が5匁程度までに収まる値段であったことを確認しておきたい。
小野田氏は「大まかな目安」として,正徳4年(1714)における大坂の積登せ商品として米一石(≒140kg)が144.3匁であることや,越後屋京本店の日雇いが1.2匁(正徳3年)であったことを記し,「庶民には容易に手が出せるものではなかった」と述べている。確かに,たかが1枚の地図に日雇い賃と同等もしくはそれ以上の値段を出すことは,それなりの出費であったと思われる。ただし,多少なりとも余裕のある者であれば十分に手の届く範囲の値段であったことも見逃せない。また,いわゆる模写図が数多く現存している状況を考えれば,他の者が購入した図を借り出して閲覧・模写するような行為が頻繁に行われていたことは明らかである。このような点を考えれば,版行地図の読者層はかなり広いと言えるであろう。

 地図の読者は,地図とどのような関係を取り結んだのであろうか。筆者は,江戸時代の地図を調査していくなかで,書き込みがなされた図に幾度となく出会ってきた。ここでは京都大学附属図書館に所蔵される林氏吉永版の京都図(大塚コレクション)の中から,そのような例を挙げておく。まず,「新撰増補京大絵図」(1709)には,東洞院通姉小路東入ル付近に朱で二重丸が付されている。この地図の読者が自宅を書き加えたのであろうか。あるいは,そこが訪問先であり,その目印として付されたのかも知れない。「宝永改正洛中洛外図」(1715)には,「かうだう(=革堂)」や「六かくたう(=六角堂)」,「いなハやくし(=因幡薬師)」といった庶民に人気のあった寺院に朱で印が加えられており,あきらかに参詣(観光)のための加筆である。「新版増補京絵図」(1723)には,三条通・四条通・烏丸通などに朱線が引かれているが,その引き方は粗雑であり,絵師による装飾線とは考えにくい。地図の読者が利便性などを考慮して加筆したものと判断できる。これらは道路地図・観光地図として地図が利用されていた例である。
 版行地図が道路地図・観光地図として期待されていたことは,版元側の状況からも推測することができる。たとえば,西国三十三所第3番札所,紀州粉川寺の門前では,当地の版元が西国巡礼用の地図を製作していた。地図には札所の他に付近の名所なども描かれており,道路地図や観光地図としての使用を目論んだ販売であることは明らかである。さらにいうならば,今の観光地と同じく「おみやげ」の一品としても売り出されていたであろう。
 一方,多少異なる使用法も確認することができる。例として,当館に収蔵されている「初版 京都大絵図 全」(1863,八大屋弥吉版とされる)を挙げておく。この図には,地図内に記載された村や寺社に□や△といった地図記号的表現が朱で加筆され,表紙には「□勅村,△霊物御覧・・・」といったような凡例が後筆で添えられている。また,地図に記載されていない事物については,「七本松一条上ル 清和院」などのように枠外に加筆されてもいる。このような所作は,地図の読者(使用者)が,地図とは別のところで得た知識をこの地図上に反映させた結果と見ることができる。この場合,版行地図は知的作業の成果を表現するためのベースマップとして位置づけられていた。
 道路地図や観光地図,作業原図としての使用は,版行地図の情報を全面的に受入れるという点では共通点を持っていると言ってよい。それに対して,版行地図の記載内容やさらには地図自体に対して一定の距離を保つような見方をする者もいた。その典型的な人物のひとりが森幸安(1701~?)である。彼は自ら300点を超す地図を作製しており,当館にもその模写図が収蔵されている。


18世紀を代表する地図作製者の1人である彼は,版行地図をどのように評価していたのか。
 森幸安の版行地図への態度がもっとも明瞭に示されているのは,国立公文書館所蔵の森幸安作「城池天府京師地図」(1750)にある「図説」である。

   (前略)然書林開板流布于世之大中小京師絵圖,甚以多焉。雖然,有輿地廣狭路程長短,不全地理。爰貞享年京師絵圖所林氏吉永壽櫻京洛内外絵圖。弘于世。宝永正徳享保年各々再梓布于世。寛保年復改正以今廣于世。此圖雖洛中町區全地理,於洛外者,屡々有長短。以不為地圖。今新圖焉。

 京都に関する版行地図は大中小とさまざまな図が数多く出回っているが,土地の広狭や距離の長短が正しく表現されておらず,「不全地理」,すなわち「地の理」が全うされていないと,幸安は言う。吉永版の図についても幸安は厳しく,洛中の記載はよいが,洛外については距離が不正確であり,やはり(他の版元の図と同じく)「地図」ではないと断じている。
 辻垣氏らによると,幸安自身は「地の理」が備わった図を「地図」とよび,それ以外は「絵図」であると考えていた。「地の理」とは,上記の引用箇所からも窺えるように距離や面積,方位などが適切であることである。確かに,吉永版の京都図を見ると,洛中はともかく,洛外は明らかに距離や方角に歪みが生じている。幸安の言う「地の理」は全うされていない。この点で,吉永版の京都図も「絵図」に過ぎず,「地図」ではないとされたのである。
 森幸安の地図観について,筆者は研究を開始したばかりであり,これ以上に論じることはできない。ただし,このような態度を見れば,幸安は版行地図を資料ないし研究対象として見ていたことが分かる。18世紀における地図の読者のなかでも,いろいろな意味で熱心な読者であったことは間違いない。

 手描図に比べ,版行地図はその流布の範囲は明らかに広く,そこに掲載された地理情報の影響力も必然的に広範囲に渡るものとなる。ただし,ここで見てきたように,「影響力」と一言で片づけてしまうことはできない。地図に記された情報から益を得る者,その情報に自らの知見を加える者,そしてその情報自体に疑いを持ち,批判を加えていく者。読者は,版行地図に対してさまざまな地点から関係をとり結ぶことができたのであり,また「読書」をする度に,その関係を変化させることも可能であった。幸安にしても,林氏吉永の版行した内裏図をそのまま模写して,自らのコレクションに加えている例もあり(北野天満宮蔵「当今皇城地図」),全ての版行地図を却下しているわけではない。
 読者ないし享受する側に視点を置いて,古地図資料をとらえなおしていく試みは,まだ始まったばかりであり,江戸時代の読者にどのような特徴が見いだせるのか,についてはこれからの課題である。ただ,出版文化が開花し,「情報化社会」となった江戸時代の人々の情報への接し方をとらえていくことは,単に江戸時代の様相を理解するだけにはとどまらない。情報化が一気に進展したという点では,現代社会も同じであり,その意味で,江戸時代の人々の情報への対応は,現代社会の問題点についても解決の示唆を与えてくれるかも知れない。


参考文献

  • 小野田一幸,「地図の値段」
  • 三好唯義・小野田一幸,『図説 日本古地図コレクション』,河出書房新社,2004,106-107頁。
  • 辻垣晃一・森洋久編著,『森幸安の描いた地図』,国際日本文化研究センター,2003。
(総合博物館助手 上杉和央・地理学)