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自画自賛・文学部博物館略史

朝尾直弘

 京都大学総合博物館がついに発足した。
 心からお祝いするとともに,関係者のご苦労に感謝申し上げたい。
 人文系と自然系のさまざまな分野が集まって,それぞれ固有の特長を生かしながら,文字どおり総合された学問の強みを発揮するには,まだしばらくの時間がかかるだろう。ちょうど,大学が創立100年の節目を迎えたいま,つぎの100年に向けた大きな構想をぜひ描いてほしい。
 もともと,京都帝国大学の創設と同時に,文科大学に博物館を置く計画があった。ようやく文化財の保存が識者の関心を惹きはじめたころである。資料の蒐集は文科大学ができる前から着手されている。文学部博物館の前身である陳列館は,1914年に最初の建物ができ,3次に及ぶ増築をへて1929年に完成した。この間の15年と,それにつづく10年ほどが陳列館の研究・教育面での活動の全盛期といってよいだろう。

陳列館

 旧文学部陳列館

 戦中戦後の混乱を抜けだして,活動の再開をめざす動きがでたのが1955年,この年文部省から博物館相当施設の認定を受け,ついで4年後陳列館の名称を博物館と改め,いくつか機能回復をはかるこころみがなされた。しかし,このとき建物は老朽化と狭隘化が進行し,それを推進することができず,おもに学部・大学院の教育に貢献するにとどまった。私自身も学生のころ,秋の大学開放の時期に古文書の釈文や解説づくりに参加した記憶があるが,主たる活動は所蔵品を演習の素材に用いるところにあったといえる。
 1986年新館が竣工し,翌年文学部博物館として再生することになった。学部の要求は延床面積8000 m2であったが,文部省との合議で6500 m2となり,さらに大蔵折衝で5000 m2にけずられ,ここで旧陳列館の半分1500 m2を残すことがきまった。施設部や建築の川崎清教授の尽力で使いやすい建物になったと思う。ただ,入れ物だけで組織は認められず,もっぱら学内での支援に期待するほかなかった。

陳列館

総合博物館 (旧文学部博物館新館)

 博物館は創造的な研究活動がないとたんなる倉庫と化し,展示もマンネリズムに陥りがちである。大学博物館は学生・院生の教育と密着しながら,新しい研究領域を開拓していく義務がある。その意味では,制度として認知されないこの10年は苦しかった。文学部では,所蔵品の多い考古学と国史(日本史)の教室を中心とし,人文地理と美学・美術史を加えた4つの教室でおもなローテーションを組み,春秋の展示を担当した。さいわい,歴代総長,本部事務局の理解によって,水光熱費など経常経費のほか,新しい展示のための研究費を毎年申請して頂戴した。最低限の助手と事務官もまわしてもらった。
 新館のオープン展示は,本学の源流となる「京都文化」をとりあげた。いまではその名を名乗る博物館もできている。西域の壁画の模写展は,しばらくして京都国立博物館の同類の展覧会をひきだした。大きな絵図の展示については,業者とともに「京大方式」と呼ばれる方法を案出した。古文書の釈文づくりも近年は多くの館で実行されている。いずれも,当事者の眼から見れば,博物館簇生期において文学部博物館のはたした先導的役割を示すものに思える。
 アイデアばかりではない。考古学は,戦中戦後の未発表の発掘成果を公表することによって,学界に寄与することができた。椿井大塚山,紫金山古墳の展示はその好例である。入館者も多かった。私たちは展示を論文の発表になぞらえて,個人やグループの責任を明らかにするよう努めた。「公家と儀式」の展示は来館の人数はすくなかったが,レベルの高さで評判となった。昨年の「荘園を読む・歩く」は,10年におよぶ現地調査をふまえた重量感のある展示で,研究の先端を行く内容であった。
 ふりかえると,苦しい事情のなか,よくやれたと思う。大学博物館の強みは,つぎつぎと若い研究者が現われ,学問の世界を革新していくところにあるといえよう。総合博物館の一部門として文学部博物館がどのように転生するのか,楽しみがひとつふえたようだ。

(京都橘女子大学教授,元京都大学文学部博物館長)