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[収蔵資料散歩]

植物採集家フォーリーと重複標本

永益英敏

 植物採集にでかけると,私はかならず何セットかの標本をとるように心掛けている。自分のところの標本庫に納める分と,他の研究施設との交換に用いる重複標本の分である。植物学者ならごくあたりまえにやることだが,これが動物の研究者にとってはたいそう不思議なことであるらしいのに気づいたのは最近のことだ。
 押し葉標本をつくるとき,一本の木からは何枚でも標本をつくることができる。その木全体を標本にするのは難しいが,こちらの枝先とあちらの枝先がそれほど違っているわけではないから,枝先を切って標本にしているかぎり同じものだといっても特にさしつかえない。だが,動物の場合,前脚と後脚を切り取って,前脚だけ手許において後脚は交換用にするなんてことはまず考えられない。動物では原則として個体全体を標本にし,それぞれは別の個体だから重複標本などないというのである。
 植物でも小型の草のようなものは個体全体を標本にする。その場合でも,同じところに生えている同種の植物はたくさんとって重複標本をつくるのが普通である。植物標本として標準的な押し葉標本では同じサイズの台紙にはりつけたカード標本として管理するため,台紙1枚1点という慣習が確立しているせいだろうと思う。逆に一枚の台紙上に何個体貼ってあっても,便宜上1点と数えるのである。
 重複標本は複数の研究機関で「同じ標本」を所有することができるから,研究上の利点ははかりしれない。ある研究論文に使われた標本を検討するのに,わざわざオリジナルを借りたり,そこへ出向いたりすることなく,別のところで「実物」を確認できるからである。また,複数の研究機関で並行して研究を進めることもできる。動物のように一つしかない貴重な標本の「奪い合い」という事態はそれほどひどくなく,むしろ交換による標本館のネットワークがよく発達している。植物標本館にとって採集品を交換するのは重要な業務の一つなのである。
 現在,京都大学が所蔵している植物標本は優に100万点を超えている。この標本庫の設立に当たって重要なコレクションとなったのがフランス人神父フォーリー(Urbain Faurie, 1846~1915)が採集した膨大な植物の重複標本である。

フォーリー フォーリー

 フォーリーは明治6年(1874)に来日し大正4年(1915)に台湾で客死するまで,各地を訪れる宣教師の地位を利用して,42年間にわたって日本,朝鮮,台湾,樺太,ハワイで植物を採集し続けた。彼は優れた植物採集家の常として多数の重複標本をつくり,世界各地の研究者に送っている。もちろん完全な一組は母国パリ自然史博物館に残されている。彼の標本をもとに命名された植物は多く,タイプ(その学名の基準となる標本)となっているものは約700種という。
 死後,彼の遺族のもとに残された1セットの標本が京都大学に落ち着くことになった。これは神戸の篤志家,岡崎忠雄氏(1884~1963)が2万5千フランで購入し,京都大学に寄贈したものである。神戸岡崎銀行の設立者であり,のちに神戸商工会議所会頭もつとめた財界人である彼が,どのような経緯でフォーリーの標本を購入し,京都大学に寄贈することになったのかはよくわかっていない。

フォーリーアザミ フォーリーアザミ      そのラベル< そのラベル

 フォーリーが亡くなったのが大正4年7月4日。京都帝国大学理学部に生物学科ができたのがすぐ後の大正8年。岡崎が購入した標本が寄贈されたことが京都大学より正式に発表されたのが大正9年3月11日である。この年,生物学科は動物学,植物学の両教室にわかれ,大正10年4月には植物分類学の講義と実習が開講された。チュンベリーもシーボルトも,これまで日本に来たヨーロッパの採集家たちはまとまった形で日本に採集品を残すことはなかった。海外からも引き合いのあったフォーリーの最後の標本が日本に残ることになったのには,そして国内で手を挙げていた東京大学でも慶応大学でもなく京都大学に残ることになったのには,間違いなく時期的な幸運というものがあったのである。
 京都大学に所蔵されているフォーリー標本は残念ながら初期のものを欠いており,完全なものではない。しかし,多くのアイソタイプ(タイプの重複標本である)を含む,この6万点にもおよぶコレクションは東アジア地域の植物を研究するうえで不可欠な標本として,今でも世界の研究者達に利用されている。
 
(京都大学総合博物館助教授・植物分類学)