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自然史博物館計画のころ

鎮西先生

鎮西清高


 多くの方々の温かいご協力と関係者の努力によって,長年の夢であった大学博物館が京都大学に発足したのは,本当にうれしいことである。しかし,ここに至るには,長い,文字どおり紆余曲折の期間があった。
 「京大に博物館を」という大学博物館設立計画が,はじめ自然史中心で進められたのは,長い歴史をもつ文学部博物館が既にあったためである。文学部博物館の歴史は本ニュースレターNo. 4に朝尾直弘先生が紹介しておられる。自然史博物館設立の活動が本格的に始まったのは昭和61年であった。この年,初めて自然史博物館の概算要求が理学部から提出されている。計画の初期には,文学部博物館・自然史博物館のほか,各部局の標本館など多くの博物館的組織を結んで「京都大学博物館機構」とよぶ連合体をイメージしていた時代もあった。
 昭和63年には,関係する理・農・教養の3学部長を含む全学的な組織「自然史博設立推進懇談会」が発足,活発に会合を繰り返して具体計画を練った。博物館の位置を北部構内の南東隅,今出川通りに面した現在の理学2号館のある場所と設定して,理学部将来計画委員会はじめ大学当局など各方面の了解を得,総面積8600m2,展示部分が半円形2階,研究・収蔵部分が地上5階地下2階の機能的でしゃれた建物の図面も出来上がった。平成元年には,既設の文学部博物館と自然史博物館を統合して京都大学総合博物館を設立するという平成2年度概算要求が,理学部・文学部共同で提出されている(以後,平成7年まで続けて両学部が交代に窓口となってこの案が概算要求された)。
 平成2年には,自然史博物館の必要性を訴え,自然史の面白さを学内外に広くアピールするため,文学部博物館の2階展示室を使わせていただいて「自然史へのいざない」という特別展と講演会を開催した。幸い好評で,自然史博計画は学内でも一般に広く認知され,時の西島総長ほかのご尽力もあって,実現に大きく近づいたように思われた。
 しかし,平成3年春,自然史博の敷地にと考えていた北部構内の南西隅に理学2号館の建設が始まって,博物館計画は敷地問題で重大な困難に陥ることとなった。それから数年間は,まさに放浪の時代であった,といえよう。この間に設立推進委員会で話題となった博物館の場所案は,いま数えて見ると6ケ所はあった。その中には,京大100周年記念事業として西部構内の一角に京大シアターを建築し,その主要部分を博物館とする案や,医学部や工学部構内に残る歴史的建築物を利用する案などもある。また,京都市中心部の小学校が多数廃校になり,市がその跡の利用を考えているという話を聞いて,小学校の建物を利用し,市と提携して自然史資料を展示し,その収蔵と研究のスペースを作ることができないか,という検討を行ったりもした。
 自然史博計画が京都大学将来構想検討委員会で正式にとりあげられて,議論が始まったのは平成7年であった。その秋に,文部省から,第2次補正予算案に盛り込むから自然史博物館の計画を至急提出せよ,という話が飛び込んだ。この話は相当に可能性があり,急遽各方面の了解を得て,現在の理学2号館の北側6300m2の自然史博を建設するという計画を提出した。残念ながらこの計画は実現に至らなかったが,今にしてみると,このときが自然史博物館としての計画が実現に最も近づいた瞬間ではなかったか,と思われる。
 このころ,文部省でも大学博物館の重要性を認識し,学術審議会の作業委員会がこれに関する検討を始めていた。平成7年夏にはこの作業委員会が大学博物館の設置の必要性を強調した中間とりまとめを行った。これによって状況が一変し,平成8年度には東京大学の総合研究資料館が大学博物館第1号として発足,次は京大だろうという情報が流れる中で,具体案作りが急がれた。概算要求も平成9年度から全学の将来構想検討委員会から提出されることとなった。この要求の当初の案では,京都大学総合博物館という部局の中に,文化史・自然史・技術史の3博物館があるという形であったが,文部省と相談の上,現在の機構にすることが最終的に決まったのである。幸い,この概算要求が認められ,総合博物館が発足することとなったのである。
 総合博物館は,やっとその組織が出発した段階である。建物が建設され,標本・資料類が整理され,そしてそれが多くの研究者や学生に利用されるようになって,初めて博物館計画が完成した,といえるのであろう。欧米の博物館も現在の状態になるまでに数百年もかかっている。博物館を育てるには息の長い活動が必要である。

(大阪学院大学教授,元理学部教授)