No.6目次へ戻る
【収蔵資料散歩】

勧修寺家文庫の再生

吉川真司
 京都大学総合博物館の発足にともない、旧文学部博物館から引き継がれることになった資料・標本類は、大きく考古資料、歴史資料、地図・民族資料、美術資料の四部門に分けられる。いずれも明治・大正期からたゆみなく収集が続けられ、文学部の研究・教育に活用されてきたものである。このうち歴史資料(史料と略称される)には、5万点以上にのぼる古文書・古記録のほか、多種多様の絵画・地図・器物・民族資料などが含まれ、原史料にもとづく実証的な歴史研究の拠りどころとなったきた。
 勧修寺家旧蔵史料は、そうした中でもユニークな存在である。5000点以上という抜群の点数もさることながら、内容として古文書・古記録・古典籍などの文献史料に加え、器物・装束類までをも含んでおり、まさに近世公家の蔵の中身がそっくり移されてきた観がある。京都大学には他にも菊亭家・平松家・壬生家などの著名な公家史料が所蔵されているが、関係史料がこれほどまとまって保存されている例はない。他機関でもこうした一括史料を所蔵していることは少なく、その意味で勧修寺家旧蔵史料は、1000年の歴史をもつ中流公家の活動を、総体として研究することを可能にする貴重な史料群と言える。

しゃく 伝 吉田経房慶賀笏     紺地唐組平緒 紺地唐組平緒

 勧修寺家とその一門が、朝廷の実務を預かる家として活躍し始めるのは、平安時代院政期のことであった。その先駆けとなった藤原為房(1049-1115)の日記『大御記』は、彼の自筆原本が博物館に収蔵され、子の為隆(1070-1130)の『永昌記』とともに重要文化財に指定されている。

大御記(自筆本) 大御記(自筆本)

ところで、為隆以後の日記・文書が累々と勧修寺家旧蔵史料に保存されているかと言えば、残念ながらそうではなく、あったとしてもほとんどが江戸時代の写本である。勧修寺家旧蔵史料には、室町時代までに成立した原史料はほんの少ししか含まれておらず、大多数は戦国期以降のものなのである。
 では何故そうなのか。言うまでもない、戦国の動乱の中で平安時代以来の蔵書が壊滅したからである。勧修寺家文庫の崩壊が一体いつの出来事であったか、これまで判然としなかったが、最近珍しい史料に出会った。それは勧修寺家文書の一点で、図書収集事業で知られる近世大名、前田綱紀の書状である(A534-11/946)。愛書家である綱紀は、明応年中(1492-1501)に勧修寺家の記録・文書類の大半が焼失し、残ったのは百分の一にも過ぎなかったことを聞き、残念至極と嘆いている。戦国時代、京都では公家諸家の炎上が相次ぎ、勧修寺家が燃えた記事も公家日記に見られるから、恐らくこれは事実だろうと思われる。ただ勧修寺家旧蔵史料のうち、室町以前のものの多くは一門の甘露寺家から流入したものであるから、実際の勧修寺家文庫の被害はほぼ全滅に近いものだったかも知れない。
 実に惜しい。記録や文書の原本が山ほど残っていたら、何と素晴らしいことだろうか。それは綱紀だけでなく、歴史研究者としての私たちの嘆きでもある。しかし、勧修寺家文書の壊滅を最も悲しんだのは、むろん当の勧修寺家歴代当主たちであったろう。やがて平和が訪れ、生活が徐々に安定し始めると、彼らの願いは失われた蔵書の復活に向けられていった。近世の勧修寺家には、経広・経慶・高顕・経逸などの精勤なる当主が輩出する。彼らは様々なつてをたどって日記・典籍類の書写を推し進める一方、自らが関わった朝儀の記録を着実に集積し、徐々に勧修寺家文庫を昔日の姿に戻していった。

勧修寺経逸画像 勧修寺経逸画像

 博物館に収蔵されているのは、かくして再生した勧修寺家文庫である。近年、私たちはその調査と整理を続けているが、まだまだ道は遠い。しかし、歴史研究の素材として十全に活用されるようになることは、勧修寺家文庫の二度目の再生であるとも言える。近世の人たちに恥ずかしくない調査・整理ができるか、これからがまさに正念場である。

(京都大学総合博物館助教授・日本史学)