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【収蔵資料散歩】

エコロジカル・コレクション


角谷岳彦


 環境保全への関心の高まりから、ちまたで、「エコロジー」という語を良く目にするようになった。しかし、純粋科学としてのエコロジー、生態学に関する世間の関心や認識は、未だに低い。こうした現状では、「エコロジカル・コレクション」という語は「地球に優しい収蔵品」と誤解されかねないが、必ずしも、そう言う意味ではない。ここでは、京都大学にある生態学上貴重な標本群のうち、特に、昆虫標本について紹介し、その博物館との関わりについて私見を述べる。
 周知のこととは、思われるが、生態学は、環境との相互作用の元に生物がどのように生きているのかという自然の中での生物の生き様、すなわち、「生態」を明らかにすることを目的とした学問である。その一応用として、環境保全に役立つことは事実であるが、生態学自体が自然保護を唯一の信条としているわけではない。  環境から切り離された死骸である乾燥標本の研究と生態学の目的は、一見、矛盾しているように見えるかもしれない。しかし、すぐれた生態学者によって、一定の見識の元に集められたコレクションが、完全な形で、しかるべき生態学者にわたった時には、時空を越えて、生態を探りうる優れた手段となる。
 たとえば、井上民二氏を中心として、筆者を含む生態学者グループが、1984年から5年がかりで、京都府下で収集した訪花昆虫コレクションは、この地域における花と昆虫の共生系の実態や共進化の歴史に多くの示唆を与え、現在もなお、研究対象として活用されている。このコレクションは、収集に先立ち、美山町芦生の原生林内と、左京区貴船の二次林内、京都大学構内という環境の異なる府下の三カ所に、一定の採集コースを定めた。定期的にこのコースに採集に出かけ、そのコース沿いで虫が訪れていることを確認した花を全種調査対象とした。各回の調査において、調査対象とした花、一種ごとに、十分間の採集時間をとり、採集時には昆虫種を区別せずに、訪花を確認した個体をすべて採集し、採集日時と訪れていた花をコード化したラベルを付けて標本とした(Inoue et al, 1990; Kato et al, 1990; Kakutani et al, 1990)。
訪花昆虫

井上民二他によって集められた訪花昆虫コレクションの一部

 このようなコレクションにおいては、採集時の情報が標本個体ごとに正確に記録されていることが最重要である。採集日や採集場所が判らない標本は、珍種標本であっても、生態学上は、無益である。上記コレクションは、採集日や採集場所に加え、採集時にその個体が訪れていた花の種名が記録されている点が特徴的で、この付加情報のおかげで、虫媒性植物と訪花性昆虫の相互作用に関する生態学的研究に極めて有益である。
 また、こうしたコレクションは、その全個体が保管されていることと、採集時の収集方針が明確に記録されていることも、重要である。たとえば、各回の採集時間が、花の種ごとに一定に保たれ、採集時に昆虫の種が区別されていないことが明示されている上記コレクションでは、各花の訪花昆虫群集における昆虫種毎の訪花頻度を、コレクション中の個体頻度から推定可能となる。さらには、採集時に種を区別しない全個体採集である故、種内の変異に関する統計的処理を伴う研究も、コレクション全体が保管されていれば、可能となる。
 この訪花昆虫コレクションを用いた具体的研究としては、たとえば、各種の花を訪れる昆虫の群集構造を、花毎にみた各種昆虫の採集個体の構成比を説明変数として、クラスタ分析することで、芦生原生林内には、マルハナバチ類を送粉者とする一群の送粉者ギルドクラスタを形成する植物群があることが定量的に示された(角谷、1996)。また、ミヤママルハナバチが多数訪れていたトチノキを訪れていたトラマルハナバチと、同時期に、他の花を訪れていたトラマルハナバチの形態計測を行った結果、トチノキを訪れているトラマルハナバチは、種内でとりわけ口器の短い個体であることが明らかになった(詳細未公表)。
 このようにして、地域群集全体の中における植物の生態や、特定昆虫種の種内の行動が、標本になった昆虫から明らかにされる。こうした標本からの研究は、その標本に基づく統計的処理を行うかぎり、完全な再現性を持つ。それゆえ、こうしたコレクションは今後の研究に活用される有益性に加え、研究証拠標本としても、完全な形で保管される価値がある。無論、それがその採集時点の自然をどれだけ適切にサンプリングしているかという検討は必要であるが。
 紙面の都合上、詳細は略すが、京都大学には、この他にも、アジア、アフリカ各地の昆虫群集コレクションや、今西錦司が戦前、戦中に海外で集めた昆虫群集コレクションなど、生態学上価値ある標本群が多数収蔵されている。しかしながら、生態学的価値に関する認識の低さから、こうした貴重なコレクションが複数部局に分散してしまったり、「重複標本の整理」で部分的に処分されたりする極めて憂うべき現実がある。こうした事態を一刻も早く改善するためにも、総合博物館自然史棟の新営とこうした標本資料の一括管理は急務であろう。

参考文献
Inoue T., M. Kato, T. Kakutani, T. Suka and T. Itino. 1990. Insect- flower relationship in the temperate deciduous forest of Kibune, Kyoto: An overview of the flowering phenology and the seasonal pattern of insects visits. Contribution from the Biological Laboratory, Kyoto University, 27: 377-462.
Kato, M., T. Kakutani, T. Inoue and T. Itino. 1990. Insect-flower relationship in the primary forest of Ashu, Kyoto: An overview of the flowering phenology and the seasonal patterns of insect visits. Contribution from the Biological Laboratory, Kyoto University, 27: 309-375.
Kakutani, T., T. Inoue, M. Kato and H. Ichihashi. 1990. Insect-flower relationship in the campus of Kyoto University, Kyoto: An overview of the flowering phenology and the seasonal pattern of insect visits. Contribution from the Biological Laboratory, Kyoto University, 27: 465-521.
角谷岳彦 1996 訪花昆虫群集の構造, 『昆虫個体群生態学の展開』(久野英二編著、京都大学学術出版会)

(京都大学総合博物館助手)