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総合博物館

瀬戸口烈司

 京都大学に総合博物館が付置されて、すでに3年が経過しようとしている。新館の建設も決定し、昨年(1998年)度末には総長のご臨席も賜って起工式を取りおこなった。旧文学部博物館に隣接して、その南側に建設がはじまっている。1年後の2001年度に開館の予定である。
京都大学における大学博物館の構想は、1897年(明治30年)の帝国大学の創設の当時から持ち上がっていた。古文書、考古遺物などの収集が、すぐに開始された。1906年(明治39年)に文科大学が設立されてからは、収集事業は本格化した。そしてはやくも、1914年(大正3年)に文科大学陳列館が建設されている。戦後の1955年(昭和30年)に、文学部陳列館は博物館法にもとづいて博物館相当施設に指定された。1959年(昭和34年)に、文学部陳列館が文学部博物館と改称されている。旧陳列館に隣接して、その北西側に文学部博物館新館が1986年(昭和61年)に竣工した。文学部を中心とした博物館建設に向けた情熱は、他を圧倒しさるものがあったのである。
 それに比して理系、つまり理学部や農学部などの自然史系の博物館建設に対する取り組みは、そうとうに遅れをとっている。各学部、研究所が博物館の建設にどのようにたずさわってきたかは、いまとなっては、各部局の概算要求書にその痕跡をみとめるだけとなっている。それにたずさわっておられた研究者のほとんどは、すでに名誉教授となっておられ、当時の事情を熟知する人はほとんど在職しておられないのが実情である。
 そのなかにあって、1967年(昭和42年)に附置された霊長類研究所が、いちはやく、ユニバーシティ・ミュージアムの性格を念頭において、附属施設としての情報資料センターの設置を概算要求にかかげていたことは注目にあたいする。これは、研究所のなかに博物館を設ける、という構想であった。いまから考えると、これはいかにも無理な構想であった。総合的な博物館のなかの分室としてなら霊長類学の資料センターを位置付けることもできるが、研究所のなかに博物館の建設をもくろむ、というのはあまりに器がちがいすぎた。発想が逆転していたのである。
 霊長類研究所の構想とはまったく独自に、理学部では別な動きがおこっていた。動物や植物、地質学教室のように、研究材料として標本類を使用する研究分野では、標本類の収蔵、保管は各教室の責任において処置されていた。部屋は手狭だから、いきおい標本類は廊下に山積みされる結果となる。これでは、せっかくの標本類がじゅぶん活用されることなく、その価値を失いかねない。この実状にかんがみ、理学部では1984年(昭和59年)に自然史資料センターの新営に関する概算要求書を提出した。同種の動きが農学部でもあって、翌年の1985年(昭和60年)に資料情報センターの新営を概算要求書に盛り込んだ。
 このように、1985年(昭和60年)ころというのは、各学部、研究所が独自に博物館について構想をあたためていた時期なのであった。文学部は新館の設立をめざし、霊長類研究所、理学部、農学部がそれぞれに資料センターの設置を概算要求にかかげる、というありさまであった。
 これらの個別の動きを統合させる作用をになったのは、京都大学内に設置された総長裁量による、『教育研究学内特別経費』によるプロジェクトであった。1986年(昭和61年)に、文科系諸学部による「京都文化の歴史的総合研究」にならんで、理学部・農学部・教養部合同委員会が「自然史資料に関する調査研究」を実施した。このプロジェクトを遂行する過程で、理系の学部、研究所がたがいに連携することの必要性が認識されるようになった。
 翌年の1987年(昭和62年)に合同委員会が霊長類研究所の賛同も得て、「京都大学自然史博物館の構想」案を作成し、理学部が代表して自然史博物館の新営に関する概算要求書を提出した。そしてついに、1988年(昭和63年)、学内の正式機関として自然史博物館設立推進懇談会が設置され、その基本理念は,「京都大学自然史博物館基本計画」という小冊子にまとめられ出版された。これも『教育研究学内特別経費』によるプロジェクトの一環として行われたのであった。
 1989年(平成元年)に,文学部博物館と自然史博物館を統合し,京都大学総合博物館を設立する概算要求が文学部と理学部から提出された。ここにいたって,はじめて,それまでは別個の動きであった文学部博物館と構想中の自然史博物館を統合させる運動となったのである。その後は毎年概算要求書を提出するとともに,各種の博物館関連の事業が『教育研究学内特別経費』によって執り行われてきた。
 1990年(平成2年)は,これらの動きのひとつのピークを画する時期であった。理学部,農学部では総合博物館のなかの自然史系部門の立ち上げにきわめて積極的となり,理学部のある北部構内にその建物用地を準備するまでにいたった。しかしながら,この計画は陽の目を見なかった。博物館計画は,頓挫してしまったのである。1991(平成3年)からは理学部内でも,博物館計画は概算要求の中の低い順位にしか位置づけられないようになってしまった。博物館用に心づもりされていた用地には,理学部の新たな研究棟が建設されたのである。
 私自身は,1993年(平成5年)に霊長類研究所から理学部に配置換えになった。1990年当時の,博物館新営に向けてのピークの動きを霊長類研究所から眺めてきた立場からは,ウソのような静けさであった。いわば,カマドの火を落とした状態で,博物館の設立に向かう熱気などどこにもなかった。
 ところが,その翌年の1994年(平成6年)に,理学部内に各教室の研究成果を展示,公開する「ミニ博物館」が開設された。この展示にあたって,各教室とも智恵をしぼりあった。このミニ博物館の設立は,理学部に自然史博物館建設に向かう火種を残す効果があった。
 これとは別の動きとして,文部省の学術審議会による『ユニバーシティ・ミュージアムの設置について』の中間報告が1995年(平成7年)に出され,翌1996年(平成8年)に最終的に答申された。この学術審議会の答申にそうかたちで京都大学に総合博物館の設置が認められ,1997年(平成9年)からスタートすることになったのである。
 総合博物館は発足したばかりではあるが,設立にいたるまでの,おもてに表れてこない動きもふくめて,「活動の記録」を『正史』のかたちで残しておくことの重要性を感じはじめている。
(総合博物館長)