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[収蔵資料散歩]

1005年の閣議録

吉川真司

 総合博物館には平松家文書という公家文書が保管されている。附属図書館に架蔵される『兵範記』(重要文化財)などの平松家本も、元来は一緒に伝えられてきたものである。この平松家文書の一点に「諸国条事定定文写」と名付けられた古文書がある。いかめしい文書名だが、簡単に言えば寛弘2年(1004)4月14日に行なわれた公卿会議の発言を書きとめたものである。平安王朝の閣議録ということになろうか。
 この日、召集をうけた公卿たちは、平安宮内裏の左近衛陣の座に着いた。左近衛陣は紫宸殿のすぐ東にあり、もともと左近衛府の詰所だったが、当時は公卿の控えの間として使われ、政務もここで処理されることが多かった。陣で行なう会議(=定)を「陣定」といい、その議事録を「定文」と呼んだ。この日は大宰大弐・上野介・加賀守・因幡守の上申事項を審議したのだが、彼ら新任受領は数箇条の申請をしてくるのが普通なので、その審議を特に「条事定」という。これで「諸国条事定定文」と呼ぶ理由もおわかりいただけただろう。平安貴族の用語は一見特殊だが、その多くは常識的で理にかなったものである。
 集まってきた公卿は10人。左大臣藤原道長が議長をつとめる。復原図では、独りあちら向きに座っている人物である。受領たちの申請書には地方行政に関するさまざまなことが書いてあるが、みな一条天皇に上奏されたのち、この場に下された。公卿は上席の者から順々に、申請書を閲読していく。そして末席の参議藤原行成がこれを読み上げると、今度は下位の者から順に意見を述べていった。上位者の意向を気にしないで発言させるための工夫だという。全員が意見を述べ終わると、行成はその内容をうまく定文にまとめた。
 公卿たちの意見は、必ずしも一致しなかった。写真で言えば、第二条の項目では、左大臣藤原道長ら二名と右大臣藤原顕光以下八名の見解がわかれている。こういう時はどうなるか。権力者道長が多数意見を押さえ込むのだろうか。ひとつ確実に言えるのは、最終決定が一条天皇に委ねられていたことである。定文は一条のために作成された文書であり、彼はそこに記された公卿たちの見解を参考にして、国家意志を決める。だから、いざとなれば全員一致の意見を否認することさえできた。定文は天皇の諮問をうけた公卿の発言記録であり、天皇の意志に介入するものではなかったのである。平安時代の天皇にはロボットのような印象があるかも知れないが、専制君主としての制度的枠組は保持されていた。
 とは言え、一条天皇は公卿たちの意見を尊重しただろうし、何よりも藤原道長の意向は無視できなかったに違いない。当時このような公卿会議は、多い年で年間10回ほど開かれたようだが、むろんそれだけで国政が処理できるはずがなく、諸官司や行事の責任者が天皇や摂関などとさまざまに折衝して業務を進めるのが一般的だった。陣定に提出されるのは、重要だが限られた案件だけだったのである。公卿会議だけから平安時代の国政を論じることはできないし、天皇が絶対的な権限を握っていたと見るのもまた誤りである。近年は平安時代史研究が進展し、陣定についても実質的な機能をもっていたかどうかについて議論がある。一見つまらぬ問題のようだが、古代から中世への移行を考える上で重要な論点となっているのである。私自身は、11世紀初頭には公卿会議はすでに形骸化していたと考えている。実質的な国政は宮廷社会の中で、貴族層の利害をそれなりに調整しながら、隠微に動かされていたという印象が強い。
 それにしても、私たちは実に事細かに王朝政治のかたちを知ることができる。情報源となるのは定文のような文書だけではない。貴族の日記や儀式書からも、文書の扱い方・声の出し方といった、きわめてリアルな知見が得られる。たとえ形式的であったとしても、そこに前代のスタイルが保存されている可能性はあるし、少なくとも〈あるべき王朝政治のかたち〉だけは詳しく把握することができる。このようなことは世界史的に見て、かなり希少なことに属するのではあるまいか。むろんそれは天皇と公家が近代まで生き残り、各時代に応じた形式と内容を付加しながらも、王朝政治のあり方を尊重し、史料を保存してきたという経緯によるものである。
 さて、1004年の「諸国条事定定文写」は名の如く「写」であって、原文書ではない。有栖川宮家にあった文書を、近世の平松家で丁寧に謄写したものという。有栖川宮家の文書も写しであったようだが、今もどこかに秘蔵され、いつか世に現われないものかと、かねてより夢想している。それは三蹟の一人、藤原行成の筆勢を平松家の「写」以上によく表わすだろうからである。ともあれ、平松家の定文は天下の孤本として、行成の名筆の特徴を伝えているという。内容よりも筆跡ゆえに、定文の「写」は作成されたのだろうか。