表紙
表紙の資料写真について
本朝図鑑綱目(ほんちょうずかんこうもく)
元禄二年(1689) 石川流宣(いしかわりゅうせん)作 林吉永(はやしきちえい)刊作者は浮世絵師・石川流宣であり、本図系統の日本図は「流宣図」と呼ばれる。流宣図は、貞享四年(1687)に初版が刊行され、以降約1世紀にわたって刊行が重ねられた。流宣図は、図柄・色彩の美しさと、記載情報の豊富さで人気を博し、日本図を代表するベストセラーとなる。
企画展『今西錦司の世界』の開催にあたって
瀬戸口烈司
今年(2002年)1月6日は、今西錦司の生誕百周年にあたる。これにあわせて総合博物館の平成13年度秋期企画展『今西錦司の世界-京大のパイオニアワーク-』が、昨年12月から開催されている。
今西生誕百周年に向けて何かの行事をやろう、という学内の動きは2年ほどまえから本格化した。一昨年(2000年)に学内総長裁量経費(教育改善推進費)による「今西錦司生誕百年事業」(代表者:松澤哲郎霊長類研究所教授)を企画した。申請書類を大学本部事務局に提出したのが同年夏で、予算化が決定したのが初秋であった。
これとは別に、戦前に今西が隊長としておこなった『大興安嶺探検』の記録写真が隊員であった吉良龍夫の手元に保管されており、京大総合博物館に引き取ってほしいと連絡があった。だが、博物館で永久保存するためには、写真類を245x335mmの国際版に焼き付け、同時に画像情報をデジタル化する必要がある。
松澤と相談して、とりあえず、そのうちの50枚を国際版に焼き付け、保存する処理として、上記「百年事業」から費用を捻出した。そして、これらを総合博物館で保管することにした。
2000年度の年度末、2001年2月に、「今西生誕百周年記念」のシンポジウムを開催したところ、芝欄会館の狭い会場に100名以上が参加するという、予想以上の大盛況となった。このシンポジウム開催と並行して、平成13年度京都大学教育研究振興財団の学術研究活動推進事業助成によるシンポジウム「21世紀へのフィールドワーク」(代表者:松林公蔵東南アジア研究センター教授)を申請したところ、これも実施が認められた。
2001年2月のシンポジウムでは、吉良の手元に保管してあった『大興安嶺探検』の記録写真を紹介しつつ、探検家としての今西像を語った。そして主要な写真類を国際版に焼き付け、総合博物館で保存の予定であることも付け加えた。この件は、すぐに京都新聞で紹介された。テレビ局の反応もすばやかった。NHK京都放送局の記者が取材に訪れ、同探検の記録写真の保存の重要性を強調したレポートを作成した。これは、NHKニュースの全国版で放映された。その放送記者は、吉場久之と名乗った。おどろいたことに、久之は吉場健二の遺児であった。
吉場健二は、本多勝一とともに京大に学生団体の「探検部」を全国にさきがけて作り、「探検部」の海外遠征隊の第1号となる「東ヒンズークシ学術探検隊」(隊長:藤田和夫大阪市立大学助教授[当時])に本多とともに参加した。大学卒業後はそのまま理学部動物学教室の大学院に進み、サル学の伊谷純一郎の第1号の弟子となる。1967年に霊長類研究所が設置されると、ただちに助手として採用され、インドやボルネオで野生霊長類の観察をすすめた。1968年7月28日、宮崎県幸島のサルを観察にゆく途中、日向灘で小舟が転覆して33才の若さで遭難死した。今西の「探検」と「サル学」の両面を引き継いだ若手第1号は、吉場健二であった。30数年を経て、吉場健二の遺児が、吉場健二の活動のルーツというべき今西の探検記録の取材に現れたのである。
私は在学中は探検部員であった。霊長類研究所に17年在籍した後、理学部に転じた。吉場健二には、1963年夏に一度だけ会った。吉場健二は、私には偉大な先輩であり続けた。その遺児が目の前に現れた。これは、きわめて私の「個人的」な事情にはちがいない。しかし、このことが、2001年の秋期企画展を今西錦司関連の展示にしようと決心する契機になったことも事実である。
2001年2月のシンポジウムの準備の過程で、京大学士山岳会の活動の記録フィルムが散在していることがわかり、平井一正(神戸大学名誉教授)を中心にして、それらを結集し、ダイジェスト版を作成する案が浮上した。先にふれた探検の記録類の保存問題も深刻である。これらを修復・保存し、活用する道をつけることが急務であり、これこそ京都大学総合博物館の果たすべき任務であると痛感した。
これらはすべて、「今西生誕百周年記念事業」の一環に位置づけ、保管・活用を博物館の業務に組み込むという案が真剣に討議された。2001年度の学内総長裁量経費(教育改善推進費)に「企画展示『今西錦司の世界』-京大のパイオニア・ワーク-」、教育基盤整備充実経費に「今西錦司関連写真・映像資料の収集・整備経費」を申請し、これらはともに認められた。
今西関連の展示をすることになったいきさつは、いささか唐突のようではあるが、下地はすでにできていた。2001年6月にオープンした展示場のなかの常設展示のメーンテーマは、「京大の野外研究」、すなわちフィールドドサイエンスである。これは、京大の野外研究の伝統とその成果を公開・展示し、その魅力を知ってもらう、というのが基本理念である。今回の企画展示は、常設展示のメーンテーマである「野外研究」のルーツをさぐる、という意味もあわせ持つ。
では、どうして「野外研究」が常設展示のメーンテーマに選ばれたのか。
京大の総合博物館が一般公開されたのは2001年6月だが、博物館組織が文部省(当時)に認められ、河野昭一を初代館長として専任教官9名、事務官5名で発足したのは1997年4月であった。京都帝国大学が設置されたのは1897年であるから、その年はちょうど京大創設百周年に当たっていた。総長井村裕夫の発案もあって、1997年秋には京大創立百周年記念展が開催された。会場の一つには、旧文学部博物館(現総合博物館の本館部分)が使用された。ここでは、学内の各学部、各研究所の履歴・活動の目玉のほか、ノーベル賞など国際賞の受賞者、文化勲章受章者を紹介するとともに、生態学、霊長類学、地質学・古生物学、栽培植物学など、京大の多彩な野外研究も紹介された。その多くに今西と関わりのある人々が貢献していることが印象的であった。
この百周年記念展は、「京大らしさ」を浮かび上がらせるにあたって、たいへんに効果があった。野外研究の伝統がすごい迫力をもって、観る人を魅了した。京大が生態学や霊長類学をはじめとして世界各地で展開している各分野の野外研究の成果を開示することを常設展示の主眼にしようとする目論見に、われわれはこの時点ではっきりとした自信を得たのである。
これが企画展『今西錦司の世界』が行なわれるに至った背景である。どのような内容のものにするかにあたっては、今西をよく識る京大学士山岳会員の斉藤清明にプロデューサーとして協力を得た。京大が「探検大学」という異名をとるほどフィールドサイエンスの分野に大きな足跡を残した巨人『今西錦司の世界』をじっくりと観ていただきたい。
(総合博物館長)
大興安嶺探検隊
谷地坊主湿原で難行する馬車
ガン(根)河下流
(中華人民共和国内蒙古自治区)
[1942年5月撮影]
平成13年度秋期企画展 今西錦司生誕100年記念「今西錦司の世界」
-京都大学のパイオニア・ワーク-
ごあいさつ
京都大学総合博物館の常設展示のメーンテーマは「野外研究」である。 京都大学の性格をもっとも的確に表現するものとして、京都大学でおこなわれてきた種々多様なフィールドワークの成果を展示してある。登山・探検を軸にした野外における研究が、これほど魅力あるものとは誰も想像できなかったであろう。1997年の京都大学創設100周年を記念する特別展示会では、「登山・探検」のコーナーを設けた。これが好評であった。常設展示のテーマを「野外研究」にするという案は、この時に浮び上がった。京都大学に野外研究の伝統を根づかせたのは、今西錦司であった。2002年は今西の生誕100年にあたる。それを記念して今西の人間像を描く展示を企画した。今回の企画展示は、京都大学を特徴づける「フィールドサイエンス」の源流をたどる意味もあわせ持っている。
京都大学総合博物館長 瀬戸口烈司
ごあいさつ
生物の「棲み分け」論を提唱するなど独創的な学者であり、登山や探検のパイオニアであった今西錦司(1902~1992)は、2002年1月6日に生誕100年を迎える。
今西が学び教えた京都大学を中心にして記念事業が行われ、この「今西錦司の世界」展は、その中核となる催しである。
昆虫学から生態学、動物社会学、霊長類・人類学へと研究対象を展開し、『生物の世界』はじめ多くの著作を出し、文化勲章も受けた今西の生涯をたどる展示となっている。初公開品もあり、巨人の全貌を知る、またとない機会といえる。
多くの遺品を提供していただいた今西家をはじめとする関係者、そして京都大学総合博物館、今西錦司生誕100年記念事業世話人会の方々に、企画担当者としてお礼を申し上げます。
プロデューサー 斎藤清明(京都大学学士山岳会会員)
謝辞
企画展「今西錦司の世界」では、京都大学のパイオニア・ワーク、そのまさにパイオニアであった今西錦司の全貌を紹介することに努めた。フィールド・ワークを根幹とする京都大学の研究が今西錦司によってスタートすることが、ご理解いただけたことと思う。
今西錦司が直接関わりをもった”もの”を展示することによって、その業績が生き生きとよみがえっている。それらの貴重な資料を提供していただいた今西武奈太郎氏をはじめ、故伊谷純一郎氏、梅棹忠夫氏、川喜田二郎氏、吉良龍夫氏に感謝する。また次の方々の尽力がこの展示に輝きをあたえたことを伝え、謝意を表したい。
岐阜大学、国土地理院、株式会社写真弘社、株式会社キャノテック、株式会社フレームマン、日本山岳会、京都大学学士山岳会、川畑博昭氏、川村赳夫氏、原弘文氏、水越武氏、株式会社エス・プジェクト
京都大学総合博物館長 瀬戸口烈司
展示項目
展示は、今西の行動テーマ別に配置してある。テーマ別のコーナーを列挙すると、以下のようになる。
- 京都の山々、初登頂『山岳省察』
- 万年雪の研究、植物の垂直分布
- すみ分け『生物の世界』
- カゲロウの研究
- 白頭山遠征
- ポナペ島遠征
- 大興安嶺探検
- 西北研究所
- 動物社会学(内蒙古)
- 動物社会学(都井岬)
- ヒマラヤ
- カラコルム
- アフリカ
- 日本の山(1552弾)
- イワナ(日本山岳研究)
- 自然学
- 年譜:今西錦司とその時代
秋期企画展にあわせて下記の公開講座が平成14年1月12日、19日に芝蘭会館で開催されました。
京都大学総合博物館 平成13年度後期公開講座
【研究ノート】東大寺前身寺院の発見
吉川真司
知名度という点から言えば、東大寺は全国の寺院でもトップクラスに位置するはずである。「奈良の大仏」の偉容に感嘆し、大仏殿の柱に穿たれた「鼻の穴」をくぐった人も多いことだろう。しかし、大仏殿だけを見ていては東大寺の歴史はわからない。二月堂・三月堂が建つ上院地区は、お水取りや天平仏で知られているが、寺内でも最も高所にあるこの一帯にこそ、東大寺誕生の謎をとく鍵が秘められているのである。
私自身が上院地区の重要性に改めて気付いたのは、「東大寺山堺四至図」という奈良時代の絵図を研究しはじめた時であった。この絵図は天平勝宝8歳(756)に、東大寺の寺域を定めるために作成されたものである。299cm×223cmの巨大な画布には東大寺伽藍のみならず、春日の山並みが見事に描き出されていて、「山の絵図」という印象を強く与える。そして春日山に建立された山林堂宇群―二月堂や三月堂もその一つである―が、東大寺の重要な構成要素であったことがしっかりと感得されてくるのである。東大寺はこのような山林寺院として出発した。絵図にいくつもの建築物が描かれている上院地区こそが、東大寺前身寺院=金鐘寺の故地であるとする通説は、とても説得的なものに思えた。
「東大寺山堺四至図」の読み解きに熱中した私は、奈良県に住んでいる利を活かして、しばしば現地を踏査した。図に描かれたエリアは東西3.8km、南北3.4kmもあるが、2・30回も行くうちに全域を踏破できた。特に綿密に歩いたのは東大寺伽藍地である。奈良時代の絵図に描かれた山や小川が今も現地比定できるのは驚きだったが、そのうち「経房」と書かれた施設が気になりだした。これは写経所のことらしく、図によれば、上院地区から谷一つ隔てた北側の山丘にあったと見てよい。著名な正倉院文書を遺し、活動がリアルに復原されている造東大寺司写経所。その位置をぜひ突きとめたいと思った。
1994年2月、ここぞと思われる山丘を調査した。食堂跡の東、丸山という山の西斜面である。いくつかの平坦地があって、古代瓦の小片がころがっていた。この辺が写経所なんだなと納得して帰った。翌1995年6月、菱田哲郎氏(京都府立大学)を案内しがてら、また同じ山丘を踏査した。その前夜、地図を眺めていて、去年歩いた場所の上方に東西50m・南北90mの巨大な平坦地があることに気づいていた。期待に胸ふくらませて急斜面を遡上すると、突如がらんとした広場に出た。問題の大平坦地である。直観的に古代遺跡だろうと思ったが、やがて菱田氏が興福寺式軒瓦を採集するに及んで、それは確信に変わった。
さらに7月、2人に加えて、東大寺を発掘しておられた平松良雄氏(橿原考古学研究所)を誘って、大平坦地周辺をじっくりと見てまわった。やがて我々が目にしたものは、まさに累々たる古代瓦の散布であった。信じられない思いがした。後日わかったことだが、95年前後の冬は鹿の食料が少なかったらしく、彼らは木の根を食べるために斜面を掘り返し、大量の瓦を地表に露出させてくれたらしい。発見は鹿のおかげだったのである。
それからというもの、東大寺に許可をいただいて、何度も遺物採集に出かけた。散布する軒瓦のほとんどは興福寺式で、東大寺創建よりも古い。朱が付着したものも見つかり、堂宇に葺かれていたことは確実となった。つまりここには東大寺の前身寺院が存在したことになる。当初はこの「東大寺丸山西遺跡」を福寿寺の跡だろうと考えていた。福寿寺もまた東大寺前身寺院の一つであるが、金鐘寺よりもやや新しい。金鐘寺は南の上院地区にあったという先入観に縛られていたのである。しかし、文献や瓦を念入りに検討していくうちに考えは逆転し、丸山西遺跡=金鐘寺跡、上院地区=福寿寺跡、という評価に落ち着いた。私たちは神亀5年(728)に聖武天皇が創建した、最古の東大寺前身寺院の遺跡を発見したものと思われる。そう言えば、聖武はその2年前に興福寺東金堂を造営している。この組織を転用したと考えれば、興福寺式軒瓦が使われていることにも説明がつく。
1999年夏以降、科学研究費が支給されたので、数度にわたって丸山西遺跡の測量調査と地下探査を行なった。遺跡の現地形は大縮尺で図化された。またレーダー探査と電気探査はほぼ同じ結果を示し、大平坦地の地下に、大規模な建物遺構が埋もれているらしいことは確実になった。電気探査のデータ解析結果を見るたびに、ついにここまで来たか、との感慨を禁じ得ない。私たちは発掘調査を行なっていないが、掘らないでもかなりの知見を得ることができたのである。ただ、文献面での検討はまだ進める余地がある。写経所の正確な場所も知りたい。しかし何より、この遺跡を日本古代の政治史・宗教史上にどう位置づけるかという、困難な課題が待ち受けている。すべてはこれからなのかも知れない。
自慢話めいてしまったのは本意でない。今どき発掘調査とは無関係に古代寺院が発見されるのも珍しかろうと思い、経緯を書きとめてみたのである。私が東大寺丸山西遺跡にかかわった時期は、博物館在任期間とかなり重複していた。フィールド調査を重視する雰囲気が研究の追い風となったのは、疑いないことと思っている。調査をお許しいただいた東大寺、協力して下さった多数の皆さんにお礼申し上げるとともに、もう過去の職場となってしまった総合博物館に対しても、感謝の微意を表したいと思う。
(京都大学大学院文学研究科助教授・日本古代史)
図1 大平坦地(東から)
図2 瓦の散布と鹿の掘りあと
【博物館スタッフ紹介】田 祥鱗 博士
総合博物館客員教授(平成13年9月1日~11月30日)
田 祥鱗 博士
DrSang-RinJEON
平成13年の秋に京都大学総合博物館外国人客員教授として来日された田 祥麟先生は、現在、ソウルの祥明大学校自然科学大学の名誉教授で、大韓民国の動物学界・魚類学界の重鎮です。
田先生の研究は海産魚の採集から始まり、その後淡水魚の分類学や生物地理学にうつり、朝鮮半島南部の淡水魚を徹底的に採集し、同時に各種の地理的分布をしらべあげました。その結果、韓国産淡水魚の新種や未記録種を多く発見され記載されただけでなく、韓国産淡水魚類相の生物地理学的境界線を発見されました。田先生の研究以前には、韓国の淡水魚の研究は分類学的な側面が甘く、また、各種の地理的分布もほとんど考慮されていませんでした。韓国の淡水魚は日本産や中国産のものと類縁関係が深く、韓国産各種の地理的分布は東アジアの動物相の起源をさぐるのに大変重要な情報を提供してくれます。田先生の韓国産淡水魚の生物地理学的研究は確かな分類学的研究と多くの採集地点に裏付けられており、画期的なものと内外で高く評価されています。そして、現在、韓国と日本の淡水魚の研究者は田先生の生物地理学の研究成果をふまえて、研究をすすめています。東アジアの動物相の研究というものを視野にいれると田先生の貢献は大変重要なものになっています。
その他、日本の多くの魚類学者と東アジアの淡水魚や海産魚について共同研究をおこなっており、その研究成果は夥しい数にのぼっています。私も、5編の共著論文があります。 田先生は日本語に堪能であり、読み書き、会話はまったく日本人とかわらない、大変な知日家です。滞在中は、これまでに蓄積されてこられた豊かな知識と経験で、京都大学の研究活動や大学院教育に多大の貢献をしていただきました。
10月29日に「韓半島中部以南の東海(日本海)側河川における淡水魚類相」と題して講演をしていただきましたが、多くの院生が聴講し、その後、館長を交えて懇親会を行い、おそくまで魚談義と自然史談義で楽しい時をすごさせていただきました。
なお、先生が韓国で採集され、京都大学に滞在中に研究に用いられた魚類標本はすべて総合博物館に寄贈されました。これらの魚類標本はかなりの種数にのぼり、京都大学の自然史研究にとってたいへん貴重なものであり、これからの韓国と日本の魚類相の比較研究に多大の貢献をすることになるでしょう。
(京都大学総合博物館・中坊徹次)
【博物館スタッフ紹介】岩﨑 奈緒子
新任スタッフ紹介
岩﨑奈緒子
資料基礎調査系・助教授(日本近世史)
昨年4月に基礎資料調査系の助教授として着任した。
京大をはなれてから、わずか三年。その間にいくつもの建物が新しく建て替えられ、キャンパスの雰囲気は大きく変わっていた。総合博物館の建物も、かつての文学部博物館時代からすると、『二倍以上』に大きくなっていて、東大路通りからはじめてその姿を見たときは、その規模に少し驚いた。そして、実際に館に入ってみて、収蔵する文系・理系の資料群の膨大さに圧倒され、とりわけ、専門の歴史資料については、その時代と種類の多様さに刺激を受けている。
文系・理系とを統合してできた当館は、展示の形一つをとってみてもそれぞれに個性的である。異種混淆の環境の中、たがいの違いを創造力の糧として尊重しながら、第一歩を踏み出した博物館の歴史を豊かなものにできるようつとめていきたい。
【先行企画展】第三高等学校由来の物理実験機器
2002年秋に「第三高等学校由来の物理実験機器」の企画展を予定していますが、この企画展の先行展示を総合博物館において2002年3月23日(土)-28日(木)に行います。これは3月24-27日に立命館大学びわこ草津キャンパスで開催される日本物理学会春期大会に合わせて行うものです。
展示例(予定):明治19年に19円50銭で購入された正切電流計
展示テーマは、「歴史の彼方に忘れ去られた物理学教育実験―京都大学所蔵の明治大正昭和初期物理実験機器と物理学図書から探る―」です。三高コレクションには、今日ではもはや行われなくなった歴史的物理学教育実験の機器が多く存在しており、それを当時の物理学図書に叙述されている物理実験と対応させて展示します。この展示を通して、今後の物理実験教育に歴史的な視点が加えられることを期待しています。
京都大学総合博物館日誌(平成13年10月~12月)
平成13年
- 10月12日
- 第51回教官会議
- 11月16日
- 第52回教官会議
- 11月30日
- 外国人研究員 田 祥麟
(大韓民国・祥明大学校自然科学大学生物学科教授)帰国 - 12月14日
- 第53回教官会議
- 12月20日
- 外国人研究員 王 元青
(中華人民共和国・中国科学院古脊椎動物与古人類研究所研究教授)来学
平成14年
- 1月11日
- 第54回教官会議
- 1月12・19日
- 第10回公開講座