ニュースレター

No. 8(2000年3月25日発行)

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陣定復元想像図
陣定復元想像図(本文「収蔵資料散歩」)

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総合博物館

瀬戸口烈司氏の顔写真
瀬戸口烈司

京都大学に総合博物館が付置されて、すでに3年が経過しようとしている。新館の建設も決定し、昨年(1998年)度末には総長のご臨席も賜って起工式を取りおこなった。旧文学部博物館に隣接して、その南側に建設がはじまっている。1年後の2001年度に開館の予定である。

京都大学における大学博物館の構想は、1897年(明治30年)の帝国大学の創設の当時から持ち上がっていた。古文書、考古遺物などの収集が、すぐに開始された。1906年(明治39年)に文科大学が設立されてからは、収集事業は本格化した。そしてはやくも、1914年(大正3年)に文科大学陳列館が建設されている。戦後の1955年(昭和30年)に、文学部陳列館は博物館法にもとづいて博物館相当施設に指定された。1959年(昭和34年)に、文学部陳列館が文学部博物館と改称されている。旧陳列館に隣接して、その北西側に文学部博物館新館が1986年(昭和61年)に竣工した。文学部を中心とした博物館建設に向けた情熱は、他を圧倒しさるものがあったのである。

それに比して理系、つまり理学部や農学部などの自然史系の博物館建設に対する取り組みは、そうとうに遅れをとっている。各学部、研究所が博物館の建設にどのようにたずさわってきたかは、いまとなっては、各部局の概算要求書にその痕跡をみとめるだけとなっている。それにたずさわっておられた研究者のほとんどは、すでに名誉教授となっておられ、当時の事情を熟知する人はほとんど在職しておられないのが実情である。

そのなかにあって、1967年(昭和42年)に附置された霊長類研究所が、いちはやく、ユニバーシティ・ミュージアムの性格を念頭において、附属施設としての情報資料センターの設置を概算要求にかかげていたことは注目にあたいする。これは、研究所のなかに博物館を設ける、という構想であった。いまから考えると、これはいかにも無理な構想であった。総合的な博物館のなかの分室としてなら霊長類学の資料センターを位置付けることもできるが、研究所のなかに博物館の建設をもくろむ、というのはあまりに器がちがいすぎた。発想が逆転していたのである。

霊長類研究所の構想とはまったく独自に、理学部では別な動きがおこっていた。動物や植物、地質学教室のように、研究材料として標本類を使用する研究分野では、標本類の収蔵、保管は各教室の責任において処置されていた。部屋は手狭だから、いきおい標本類は廊下に山積みされる結果となる。これでは、せっかくの標本類がじゅぶん活用されることなく、その価値を失いかねない。この実状にかんがみ、理学部では1984年(昭和59年)に自然史資料センターの新営に関する概算要求書を提出した。同種の動きが農学部でもあって、翌年の1985年(昭和60年)に資料情報センターの新営を概算要求書に盛り込んだ。

このように、1985年(昭和60年)ころというのは、各学部、研究所が独自に博物館について構想をあたためていた時期なのであった。文学部は新館の設立をめざし、霊長類研究所、理学部、農学部がそれぞれに資料センターの設置を概算要求にかかげる、というありさまであった。

これらの個別の動きを統合させる作用をになったのは、京都大学内に設置された総長裁量による、『教育研究学内特別経費』によるプロジェクトであった。1986年(昭和61年)に、文科系諸学部による「京都文化の歴史的総合研究」にならんで、理学部・農学部・教養部合同委員会が「自然史資料に関する調査研究」を実施した。このプロジェクトを遂行する過程で、理系の学部、研究所がたがいに連携することの必要性が認識されるようになった。

翌年の1987年(昭和62年)に合同委員会が霊長類研究所の賛同も得て、「京都大学自然史博物館の構想」案を作成し、理学部が代表して自然史博物館の新営に関する概算要求書を提出した。そしてついに、1988年(昭和63年)、学内の正式機関として自然史博物館設立推進懇談会が設置され、その基本理念は,「京都大学自然史博物館基本計画」という小冊子にまとめられ出版された。これも『教育研究学内特別経費』によるプロジェクトの一環として行われたのであった。

1989年(平成元年)に,文学部博物館と自然史博物館を統合し,京都大学総合博物館を設立する概算要求が文学部と理学部から提出された。ここにいたって,はじめて,それまでは別個の動きであった文学部博物館と構想中の自然史博物館を統合させる運動となったのである。その後は毎年概算要求書を提出するとともに,各種の博物館関連の事業が『教育研究学内特別経費』によって執り行われてきた。

1990年(平成2年)は,これらの動きのひとつのピークを画する時期であった。理学部,農学部では総合博物館のなかの自然史系部門の立ち上げにきわめて積極的となり,理学部のある北部構内にその建物用地を準備するまでにいたった。しかしながら,この計画は陽の目を見なかった。博物館計画は,頓挫してしまったのである。1991(平成3年)からは理学部内でも,博物館計画は概算要求の中の低い順位にしか位置づけられないようになってしまった。博物館用に心づもりされていた用地には,理学部の新たな研究棟が建設されたのである。

私自身は,1993年(平成5年)に霊長類研究所から理学部に配置換えになった。1990年当時の,博物館新営に向けてのピークの動きを霊長類研究所から眺めてきた立場からは,ウソのような静けさであった。いわば,カマドの火を落とした状態で,博物館の設立に向かう熱気などどこにもなかった。

ところが,その翌年の1994年(平成6年)に,理学部内に各教室の研究成果を展示,公開する「ミニ博物館」が開設された。この展示にあたって,各教室とも智恵をしぼりあった。このミニ博物館の設立は,理学部に自然史博物館建設に向かう火種を残す効果があった。

これとは別の動きとして,文部省の学術審議会による『ユニバーシティ・ミュージアムの設置について』の中間報告が1995年(平成7年)に出され,翌1996年(平成8年)に最終的に答申された。この学術審議会の答申にそうかたちで京都大学に総合博物館の設置が認められ,1997年(平成9年)からスタートすることになったのである。

総合博物館は発足したばかりではあるが,設立にいたるまでの,おもてに表れてこない動きもふくめて,「活動の記録」を『正史』のかたちで残しておくことの重要性を感じはじめている。

(総合博物館長)

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【収蔵資料散歩】1005年の閣議録

吉川真司

総合博物館には平松家文書という公家文書が保管されている。附属図書館に架蔵される『兵範記』(重要文化財)などの平松家本も、元来は一緒に伝えられてきたものである。この平松家文書の一点に「諸国条事定定文写」と名付けられた古文書がある。いかめしい文書名だが、簡単に言えば寛弘2年(1004)4月14日に行なわれた公卿会議の発言を書きとめたものである。平安王朝の閣議録ということになろうか。

この日、召集をうけた公卿たちは、平安宮内裏の左近衛陣の座に着いた。左近衛陣は紫宸殿のすぐ東にあり、もともと左近衛府の詰所だったが、当時は公卿の控えの間として使われ、政務もここで処理されることが多かった。陣で行なう会議(=定)を「陣定」といい、その議事録を「定文」と呼んだ。この日は大宰大弐・上野介・加賀守・因幡守の上申事項を審議したのだが、彼ら新任受領は数箇条の申請をしてくるのが普通なので、その審議を特に「条事定」という。これで「諸国条事定定文」と呼ぶ理由もおわかりいただけただろう。平安貴族の用語は一見特殊だが、その多くは常識的で理にかなったものである。

集まってきた公卿は10人。左大臣藤原道長が議長をつとめる。復原図では、独りあちら向きに座っている人物である。受領たちの申請書には地方行政に関するさまざまなことが書いてあるが、みな一条天皇に上奏されたのち、この場に下された。公卿は上席の者から順々に、申請書を閲読していく。そして末席の参議藤原行成がこれを読み上げると、今度は下位の者から順に意見を述べていった。上位者の意向を気にしないで発言させるための工夫だという。全員が意見を述べ終わると、行成はその内容をうまく定文にまとめた。

公卿たちの意見は、必ずしも一致しなかった。写真で言えば、第二条の項目では、左大臣藤原道長ら二名と右大臣藤原顕光以下八名の見解がわかれている。こういう時はどうなるか。権力者道長が多数意見を押さえ込むのだろうか。ひとつ確実に言えるのは、最終決定が一条天皇に委ねられていたことである。定文は一条のために作成された文書であり、彼はそこに記された公卿たちの見解を参考にして、国家意志を決める。だから、いざとなれば全員一致の意見を否認することさえできた。定文は天皇の諮問をうけた公卿の発言記録であり、天皇の意志に介入するものではなかったのである。平安時代の天皇にはロボットのような印象があるかも知れないが、専制君主としての制度的枠組は保持されていた。

とは言え、一条天皇は公卿たちの意見を尊重しただろうし、何よりも藤原道長の意向は無視できなかったに違いない。当時このような公卿会議は、多い年で年間10回ほど開かれたようだが、むろんそれだけで国政が処理できるはずがなく、諸官司や行事の責任者が天皇や摂関などとさまざまに折衝して業務を進めるのが一般的だった。陣定に提出されるのは、重要だが限られた案件だけだったのである。公卿会議だけから平安時代の国政を論じることはできないし、天皇が絶対的な権限を握っていたと見るのもまた誤りである。近年は平安時代史研究が進展し、陣定についても実質的な機能をもっていたかどうかについて議論がある。一見つまらぬ問題のようだが、古代から中世への移行を考える上で重要な論点となっているのである。私自身は、11世紀初頭には公卿会議はすでに形骸化していたと考えている。実質的な国政は宮廷社会の中で、貴族層の利害をそれなりに調整しながら、隠微に動かされていたという印象が強い。

それにしても、私たちは実に事細かに王朝政治のかたちを知ることができる。情報源となるのは定文のような文書だけではない。貴族の日記や儀式書からも、文書の扱い方・声の出し方といった、きわめてリアルな知見が得られる。たとえ形式的であったとしても、そこに前代のスタイルが保存されている可能性はあるし、少なくとも〈あるべき王朝政治のかたち〉だけは詳しく把握することができる。このようなことは世界史的に見て、かなり希少なことに属するのではあるまいか。むろんそれは天皇と公家が近代まで生き残り、各時代に応じた形式と内容を付加しながらも、王朝政治のあり方を尊重し、史料を保存してきたという経緯によるものである。

さて、1004年の「諸国条事定定文写」は名の如く「写」であって、原文書ではない。有栖川宮家にあった文書を、近世の平松家で丁寧に謄写したものという。有栖川宮家の文書も写しであったようだが、今もどこかに秘蔵され、いつか世に現われないものかと、かねてより夢想している。それは三蹟の一人、藤原行成の筆勢を平松家の「写」以上によく表わすだろうからである。ともあれ、平松家の定文は天下の孤本として、行成の名筆の特徴を伝えているという。内容よりも筆跡ゆえに、定文の「写」は作成されたのだろうか。

(総合博物館助教授・日本史学)

諸国条事定定文写
寛弘二年四月十四日「諸国条事定定文写」(平松家文書)

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第4回公開講座の記録「人間と自然の共生をめぐって」

(1998年11-12月)

博物館の研究活動は自然界との「つきあい」である。本公開講座では,当博物館スタッフが研究活動を通じて得た知識をもとに人間と自然の共生について語り,博物館の研究活動を紹介した。

11月14日(土):日本の森林に学ぶ-21世紀の人間と自然の共生-
河野昭一(総合博物館長[当時])

日本の森林相は,コスト至上主義の森林経営,乱開発,また酸性雨などにより21世紀初頭に壊滅的崩壊すら起こしかねない危機的状況にある。しかし,つい最近まで日本の森林には地域ごとの個性を熟知した林業の伝統があり,手厚く育み,その果実をいただくという思想により保全されてきた。このような日本人と森林との関わりの伝統を手本に21世紀の人間と自然のあり方を考えるべきである。

11月121日(土):帰化哺乳類と人間活動
本川雅治(総合博物館助手)

自然分布範囲外の地域や生態系に人為により持ち込まれた帰化哺乳類が,深刻な問題を起こしている.こうした帰化哺乳類の起源は,従来は家鼠類などの偶発的な移入であったが,最近では人間の管理下にあるペットなどの不適切な管理下での逃亡や積極的な放逐も増えている.帰化哺乳類は,在来種の捕食,生態的競合関係にある種の駆逐,植生破壊,在来種への遺伝子汚染や病気伝播,人間への病気伝播,農林水産業への損失,商品の食害や汚染など,人間活動だけでなく在来の生態系にも深刻な影響を与えている.日本の在来哺乳類相はその島嶼化の長い歴史を反映して,固有種の多さによって特徴づけられる.それが帰化哺乳類によって大きく撹乱されており,除去を含む帰化哺乳類対策が必要である.また,ペットなどをむやみに放逐しないといった哺乳類とのつきあい方に対する啓蒙活動も必要である.

定規と共に置いたねずみの写真
ねずみ

11月28日(土):多自然型川づくり工法の実際
城下荘平(総合博物館助教授)

従来の川づくりは防災や利水のみに主眼が置かれてきたため,水が流れやすいように両岸は単調で直線的なコンクリート護岸が整備され,また,平坦になるように川底は中州などが削り取られて整備されてきた.しかしながら,そのように整備された川からは,中州に生える水生植物や,そこに生息する昆虫が消え,垂直のコンクリート護岸壁は人々が水辺で水と戯れる機会を奪ってしまった.

そこで,単に防災の機能を持つだけではなく,多くの自然が共存し,人々に潤いをもたらすような「多自然型」と称される川づくりが1980年代の半ば頃にスイスや(当時の)西ドイツなどドイツ語圏から始まり,その数年後にわが国でも始まった.

本講では,宇川(京都府・峰山),木津川,久米川(三重県・上野),オカバルシ川,豊平川,月寒川(札幌市)における多自然型川づくりの施工例と,「建設省自然共生研究センター」(岐阜県羽島郡)を紹介する.

写真
オカバルシ川「小鳥の村」(札幌市)における施工例

12月5日(土):魚と、どうつきあうか
中坊徹次(総合博物館教授)

魚はむかしから漁業や釣りをとおして我々になじみぶかい生物である.最近はアクアリウムの普及によって観賞用の美しい小型の海産魚が身近なものになりつつある.しかし,乱獲や環境破壊などによって絶滅の危機に瀕しているものもでてきており,その対策がときに話題になる.魚の乱獲などに対処するのには,まず,魚についてよく知らなければならない.

魚とひとくちに言っても,無顎類,軟骨魚類,硬骨魚類とまったく特徴のことなるグループからなっている.かれらの間の違いは陸上の脊椎動物の諸グループの間にある違いよりもはるかに大きい.それぞれについて,特徴を講述した.とくに,再生産の方法については詳しく説明した.軟骨魚類と硬骨魚類では再生産の方法はまったく異なっており,それは魚と「つきあう」上において大変重要な意味をもっているからである.

写真
オムロアジ属クサヤモロと大学院生

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【第7回公開講座】変わりゆく身のまわりの自然

この数十年の急激な経済成長によって,わたしたちの国土は大きく変貌した。身のまわりの自然はどのように変わってしまったのか,里山や水辺など身近な自然の変容についての講義を通じ,人間と自然との関り方を関わり方を考える。

5月20日(土)午前の部 里山を考える 生態学研究センター助教授 田端英雄
5月20日(土)午後の部 草は世につれ─雑草をどうみるか 大学院農学研究科助手 三浦励一
5月27日(土)午前の部 日本の渚:汀線の自然史 大学院人間・環境学研究科助教授加藤 真
5月27日(土)午後の部 追われる生きものたち 総合博物館助教授 永益英敏
期間
平成12年5月20日,27日(各土曜日 計2回)
時間
各回とも午前の部午前10時~12時30分 午後の部午後2時~午後4時30分
会場
京都大学医学部芝蘭会芝蘭会館 Tel075-771-0958
(東山通東一条交差点南西50m。駐車場はありませんので自家用車による来館はご遠慮ください。)
定員
60名(先着順)
受講料
5,500円(全講義を通じての受講料です。納められた受講料は返金できません。)
申込方法
現金書留または受講料直接持参によりお申込ください。現金書留の場合は次のものを同封してください。

  • 受講料
  • 住所・氏名・年齢・職業・電話番号を記入した用紙。(形式は問いません)
  • 返信用封筒(表側に宛名・郵便番号を記入し80円切手を貼ってください。受講証・受領書等をお送りします。)
申込期間
4月24日(月)~5月15日(月)
問い合せ先
京都大学大型計算機センター等事務部博物館事業掛
(電話)075-753-3274 (URL)https://www.museum.kyoto-u.ac.jp
申込・現金書留送付先
京都大学大型計算機センター等事務部経理掛
〒606-8501 京都市左京区吉田本町
(電話)075-753-7404