(21世紀の日本と関西)


 今、経済資源の視点から共生のことにお触れになりましたが、先程から出ていますように、世界の交通が発達するとか、情報が行き交うようになってグローバル化が進む状況の中では、単に経済資源の分野だけでなく、いろんな分野の共生が出てくる可能性が高いのではありませんか。文化に限らず、あらゆる分野で市民レベルの共生交流が出てくる可能性は高い。
梅棹 最近はインターネットが大流行で、それで未来が開けるような幻想を持っておられる方もいらっしゃると思いますが、情報文明を将来考えますと、これも私は否定的なんです。開発途上国は別として、先進国における情報革命には日本は乗り遅れたんじゃないか。19世紀末から20世紀にかけて日本は運輸革命はかなり上手にやった。海運と鉄道です。開発途上国やお隣の中国とはわけが違います。鉄道は本当に少ないです。開発ができていない。日本は隅々まで鉄道を張りめぐらせた。同じように、電信は高密度に日本社会を覆った。
 しかしもうその時代ではない。有線電話の時代と違う。まさにコンピューター革命の波が来ています。そうなりますと、これは大分立ち遅れています。アメリカははるかに進んでいる。アメリカには気がついた時には、だいぶん水を開けられていた。今、慌てて一所懸命やっている最中だと思いますけどね。
 そのことについてですが、この間、民博でシンポジウムをやりました。その時に、慶応大学の武藤さんというインターネットという言葉を日本に紹介した人が、アメリカの情報化と日本の情報化は全くベクトルが違うと。アメリカで情報化というのは民主社会を作る。日本の情報化は儲ける話か独占する話だと。同じ情報化という言葉を使っていても、両国で全然意味が違う。
梅棹 そうだと思います。
 その点をめぐって大議論をやったんですが、今の先生のお話で思い出しました。そういう意味では、情報化と一言で言っても、技術だけ見ているわけにいきませんね。
梅棹 それが社会的にどういう結果をもたらすかが問題です。電子オタクばかりできても仕方がない。社会をどう変えていくのか。アメリカの発想が正しいと思います。日本もそうあるべきでしょう。
 一部の人が儲けるという話ではない。
梅棹 そうではないんです。その点、戦後の日本はある意味で悲しい道をたどった。繁栄の道でもあったんですが、同時に繁栄の裏側、繁栄を支えるための経済重視の結果、日本人の経済人化が起こった。司馬遼太郎さんがそれを「日本人がアジア人化した」と言うんです。うまい表現ですが、危険な表現でもあります。しかし、それは当たっていると思う。日本人はアジア人ではなかったんです。
 もともと私は、日本はアジアではないという持論です。その証拠に、ヨーロッパ諸国が日本に対して、あなたのところはアジアに入るかどうかという相談を受けたことはいっぺんもないんです。勝手に彼らが、日本はアジアだと決めてしまった。我々の預かり知らんことです。日本はアジアの他の国と比べてまるで違う国です。日本はアジアではないというところから出発すべきです。アジア諸国との連帯とか言っても意味がない。
 先生の文明生態史観の根底はそこにあったわけですね。
梅棹 日本は別のもの、別の運命をたどっている。そういうことを考えると、21世紀における日本の行き方、その中での関西のあり方はかなり難しいです。アジアから離脱して立っていかなければならない。アジアに巻き込まれたらお終いです。共倒れになる。
 お話を伺っている間に、ほとんど時間がなくなってしまったんですが、今日の先生のお話のご趣旨ははっきりしております。体制として独立するかは別として、少なくとも関西独立論というものが一つの21世紀を生きる時の精神構造としては意味があると承ったのですが、最後に21世紀の関西像を総括するような言葉がございましたらお願いします。
梅棹 私は先程から言っておりますように、日本国家から離脱して関西は独立した方がいいと思います。どこで日本国家を分割するのか。たぶん関ケ原でしょうね。関ケ原から東は「東国家」と名乗れ。そこから西は「大和国家」だと私は名前を付けてるんです。我々は大和国家の中心にいる。それはそれなりの平和と安定をエンジョイできるはずだということですね。それには難しい問題がいっぱいあります。特に国際関係です。国際関係の中で大和国家が繁栄しながら生き延びる方策を考えないといけない。これからは、とにかく経済力はじり貧ですから、相当やり繰り算段を考えないといけない。しかし、東京に搾取されているよりはマシだと思うんです。
 たいへん過激なお話がつづきましたが、時間がまいりましたので、ここで梅棹先生の特別講演を終わりたいと思います。

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