ニュースレター

No. 4(1997年8月5日発行)

自画自賛・文学部博物館略史

朝尾直弘

京都大学総合博物館がついに発足した。

心からお祝いするとともに,関係者のご苦労に感謝申し上げたい。

人文系と自然系のさまざまな分野が集まって,それぞれ固有の特長を生かしながら,文字どおり総合された学問の強みを発揮するには,まだしばらくの時間がかかるだろう。ちょうど,大学が創立100年の節目を迎えたいま,つぎの100年に向けた大きな構想をぜひ描いてほしい。

もともと,京都帝国大学の創設と同時に,文科大学に博物館を置く計画があった。ようやく文化財の保存が識者の関心を惹きはじめたころである。資料の蒐集は文科大学ができる前から着手されている。文学部博物館の前身である陳列館は,1914年に最初の建物ができ,3次に及ぶ増築をへて1929年に完成した。この間の15年と,それにつづく10年ほどが陳列館の研究・教育面での活動の全盛期といってよいだろう。

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旧文学部陳列館

戦中戦後の混乱を抜けだして,活動の再開をめざす動きがでたのが1955年,この年文部省から博物館相当施設の認定を受け,ついで4年後陳列館の名称を博物館と改め,いくつか機能回復をはかるこころみがなされた。しかし,このとき建物は老朽化と狭隘化が進行し,それを推進することができず,おもに学部・大学院の教育に貢献するにとどまった。私自身も学生のころ,秋の大学開放の時期に古文書の釈文や解説づくりに参加した記憶があるが,主たる活動は所蔵品を演習の素材に用いるところにあったといえる。

1986年新館が竣工し,翌年文学部博物館として再生することになった。学部の要求は延床面積8000m2であったが,文部省との合議で6500m2となり,さらに大蔵折衝で5000m2にけずられ,ここで旧陳列館の半分1500m2を残すことがきまった。施設部や建築の川崎清教授の尽力で使いやすい建物になったと思う。ただ,入れ物だけで組織は認められず,もっぱら学内での支援に期待するほかなかった。

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総合博物館(旧文学部博物館新館)

博物館は創造的な研究活動がないとたんなる倉庫と化し,展示もマンネリズムに陥りがちである。大学博物館は学生・院生の教育と密着しながら,新しい研究領域を開拓していく義務がある。その意味では,制度として認知されないこの10年は苦しかった。文学部では,所蔵品の多い考古学と国史(日本史)の教室を中心とし,人文地理と美学・美術史を加えた4つの教室でおもなローテーションを組み,春秋の展示を担当した。さいわい,歴代総長,本部事務局の理解によって,水光熱費など経常経費のほか,新しい展示のための研究費を毎年申請して頂戴した。最低限の助手と事務官もまわしてもらった。

新館のオープン展示は,本学の源流となる「京都文化」をとりあげた。いまではその名を名乗る博物館もできている。西域の壁画の模写展は,しばらくして京都国立博物館の同類の展覧会をひきだした。大きな絵図の展示については,業者とともに「京大方式」と呼ばれる方法を案出した。古文書の釈文づくりも近年は多くの館で実行されている。いずれも,当事者の眼から見れば,博物館簇生期において文学部博物館のはたした先導的役割を示すものに思える。

アイデアばかりではない。考古学は,戦中戦後の未発表の発掘成果を公表することによって,学界に寄与することができた。椿井大塚山,紫金山古墳の展示はその好例である。入館者も多かった。私たちは展示を論文の発表になぞらえて,個人やグループの責任を明らかにするよう努めた。「公家と儀式」の展示は来館の人数はすくなかったが,レベルの高さで評判となった。昨年の「荘園を読む・歩く」は,10年におよぶ現地調査をふまえた重量感のある展示で,研究の先端を行く内容であった。

ふりかえると,苦しい事情のなか,よくやれたと思う。大学博物館の強みは,つぎつぎと若い研究者が現われ,学問の世界を革新していくところにあるといえよう。総合博物館の一部門として文学部博物館がどのように転生するのか,楽しみがひとつふえたようだ。

(京都橘女子大学教授,元京都大学文学部博物館長)

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【フィールドノート】森のちょっといやな生き物

佐藤廉也

森に暮らす人々の自然観を知るために、初めてエチオピアに出かけてゆく気持ちを固めていた頃、未だ知らぬ調査地へ踏み込む不安から、夢でうなされたことが何度かある。そのうちの一つが、豹におそわれた夢であった。山が好きで、野営の技術にも慣れているつもりだったが、ヒグマのいる北海道を別にして、日本の山には象やライオンや豹がうろついたりはしないし、マラリアのような病気もない。町のエチオピア人もひどく恐れているような森の奥深くに武器を持たずに入りこんで、大丈夫なのだろうか?結構真剣な不安だった。

実際に森に住みはじめると、いくつかの心配は杞憂だったとわかる。象は乱獲によって、この数年間滅多に姿を見なくなった。ライオンはサバンナに棲み、森に踏み込んでくることは普通はないので、森にいればかえって安全である。マラリアも、少なくとも私の調査地域では、大きな川がないため流行することも多くはない。何より危険な人間の侵略者がいない。この森に棲む人々の口頭伝承によれば、彼らは南方のサバンナから戦争を嫌って森に落ちつくようになった人々の子孫である。森は案外安全で住み易い場所であった。豹はといえば、森の中に棲み、ときおり集落にもやってきて、夜中に鶏をさらっていくこともある。しかし、近くに痕跡はあっても、姿をみることはあまりない。人々も、豹が人を恐れて姿をみせないことを、知っている。

点在する小さな集落を求めて森の中を旅していて、一度だけ至近距離で豹に鉢合わせそうになったことがある。小さな踏み跡を辿っているとき、旅に連れ添ってくれていた若い友人が、細い水流をわたる手前で急にぴたっととまり、緊張を顔に表した。最初何事かわからなかったが、立ち止まったまま耳を澄ますと、かすかに「クルルル・・・」という唸り声が聴こえる。少し待ってから水流に出ると、泥の上に生々しい足跡があった。水を飲みに来て、こちらの存在に気付き、対岸の踏み跡を引き返していったようだ。

しかし、豹が好んで人間を襲うという話は聞かないし、むしろ豹皮をとるために罠にかけられる豹の方が、人間の受ける被害よりも大きそうだ。森の中で、やっかいな動物というのは、もっと身近にいる小さな連中だ。例えば、森の人々が非常に恐れるのは、サファリアリである。アリたちは、豹やライオンと違って、身の危険を察して人を避けたりはしないし、一匹一匹は命知らずである。噛まれると結構痛いし、体をちぎられても食いついた頭は離れない。とりわけ雨季の間には、集落の近辺におびただしい列をなして行進する姿がよく見られる。家の近くに巣を発見すると、事態は深刻である。しばしば、夜中に家の中を襲うからである。夕方に気付いたときなど、アリよけにキャッサバの葉を家の周りに敷き詰めたりするが、特効薬とは言いがたい。下手をすると、しばらく避難して人の家にやっかいになることにもなりかねない。

一度、思い知らされたことがある。夜中の3時頃に、ポツポツという雨音を聞いて目を醒ました。雲ひとつない空だったのに、おかしいな、と思って寝袋につっこんだ頭を持ちあげてみると、小屋の中や寝袋の上に何かが揺れているように見える。闇に目が慣れると、床一面にアリが行進しているのが見え、寝袋の下半分にまでせまってきていた。雨音にきこえたのは、アリが這う音だったのだ。一目散に外に脱出し、夜明けまで外で呆然として過ごした。以後、夕方になると落ちつかず、家の裏などを丹念に点検せずにはおれなくなった。

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筆者のねぐら

アリほど恐ろしくはないが、日常的に悩まされるのが、皮膚の中に卵や幼虫をうみつけるハエやノミである。とくに足の裏や爪の周りに卵をうみつけるスナノミは、予防するのが難しい。やられても命にかかわることはないが、ほっておくと皮膚の中の卵は大きくなって痛むし、運が悪いと取り除いたあとに化膿して足がボロボロになる。特に乾季になると、毎日のようにやられ、足まわりを点検するのが日課になる。発見すると、安全ピンでつついて、卵を取り除いてやるのである。他の人々も、暇なときに寝ころんで足をちくちくとやっている。大きく膨らんだ卵が取り出された時など、嬉しくて採集ビンに入れて日本に持ち帰ったこともある。

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足にもぐりこんだスナノミをとる

スナノミは、人間以外の動物にも寄生するらしい。捕らえられたヒヒの子を見たとき、手の指にスナノミが入って腫れているのをみた。むしろ、針でつつかれて焼かれてしまう人間の場合よりも、こちらに寄生するのが成功事例なのかもしれない。ライオンにも寄生するのかどうかは知らないが、これらは大きな敵よりかえっていやな「獅子身中の虫」である。私と暮らす人々にとっては、生活技術を学ぶ、と言って居座りながら、いつまでたっても自分の食べる畑ひとつ満足に作れない外国人の居候の方が、よほどやっかいな生き物かもしれないが・・・。

(京都大学総合博物館助手・人文地理学)

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【収蔵資料散歩】植物採集家フォーリーと重複標本

永益英敏

植物採集にでかけると,私はかならず何セットかの標本をとるように心掛けている。自分のところの標本庫に納める分と,他の研究施設との交換に用いる重複標本の分である。植物学者ならごくあたりまえにやることだが,これが動物の研究者にとってはたいそう不思議なことであるらしいのに気づいたのは最近のことだ。

押し葉標本をつくるとき,一本の木からは何枚でも標本をつくることができる。その木全体を標本にするのは難しいが,こちらの枝先とあちらの枝先がそれほど違っているわけではないから,枝先を切って標本にしているかぎり同じものだといっても特にさしつかえない。だが,動物の場合,前脚と後脚を切り取って,前脚だけ手許において後脚は交換用にするなんてことはまず考えられない。動物では原則として個体全体を標本にし,それぞれは別の個体だから重複標本などないというのである。

植物でも小型の草のようなものは個体全体を標本にする。その場合でも,同じところに生えている同種の植物はたくさんとって重複標本をつくるのが普通である。植物標本として標準的な押し葉標本では同じサイズの台紙にはりつけたカード標本として管理するため,台紙1枚1点という慣習が確立しているせいだろうと思う。逆に一枚の台紙上に何個体貼ってあっても,便宜上1点と数えるのである。

重複標本は複数の研究機関で「同じ標本」を所有することができるから,研究上の利点ははかりしれない。ある研究論文に使われた標本を検討するのに,わざわざオリジナルを借りたり,そこへ出向いたりすることなく,別のところで「実物」を確認できるからである。また,複数の研究機関で並行して研究を進めることもできる。動物のように一つしかない貴重な標本の「奪い合い」という事態はそれほどひどくなく,むしろ交換による標本館のネットワークがよく発達している。植物標本館にとって採集品を交換するのは重要な業務の一つなのである。

現在,京都大学が所蔵している植物標本は優に100万点を超えている。この標本庫の設立に当たって重要なコレクションとなったのがフランス人神父フォーリー(Urbain Faurie, 1846-1915)が採集した膨大な植物の重複標本である。

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フォーリー

フォーリーは明治6年(1874)に来日し大正4年(1915)に台湾で客死するまで,各地を訪れる宣教師の地位を利用して,42年間にわたって日本,朝鮮,台湾,樺太,ハワイで植物を採集し続けた。彼は優れた植物採集家の常として多数の重複標本をつくり,世界各地の研究者に送っている。もちろん完全な一組は母国パリ自然史博物館に残されている。彼の標本をもとに命名された植物は多く,タイプ(その学名の基準となる標本)となっているものは約700種という。

死後,彼の遺族のもとに残された1セットの標本が京都大学に落ち着くことになった。これは神戸の篤志家,岡崎忠雄氏(1884-1963)が2万5千フランで購入し,京都大学に寄贈したものである。神戸岡崎銀行の設立者であり,のちに神戸商工会議所会頭もつとめた財界人である彼が,どのような経緯でフォーリーの標本を購入し,京都大学に寄贈することになったのかはよくわかっていない。

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フォーリーアザミ

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そのラベル

フォーリーが亡くなったのが大正4年7月4日。京都帝国大学理学部に生物学科ができたのがすぐ後の大正8年。岡崎が購入した標本が寄贈されたことが京都大学より正式に発表されたのが大正9年3月11日である。この年,生物学科は動物学,植物学の両教室にわかれ,大正10年4月には植物分類学の講義と実習が開講された。チュンベリーもシーボルトも,これまで日本に来たヨーロッパの採集家たちはまとまった形で日本に採集品を残すことはなかった。海外からも引き合いのあったフォーリーの最後の標本が日本に残ることになったのには,そして国内で手を挙げていた東京大学でも慶応大学でもなく京都大学に残ることになったのには,間違いなく時期的な幸運というものがあったのである。

京都大学に所蔵されているフォーリー標本は残念ながら初期のものを欠いており,完全なものではない。しかし,多くのアイソタイプ(タイプの重複標本である)を含む,この6万点にもおよぶコレクションは東アジア地域の植物を研究するうえで不可欠な標本として,今でも世界の研究者達に利用されている。

(京都大学総合博物館助教授・植物分類学)

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【秋季企画展】キョッソーネ没後100年展

(9月16日~9月27日)

期間 9月16日(火)~9月27日(土)(日曜・月曜・祝日休館)
開館時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)
入場料 大人240円、大・高校生170円、中・小学生110円(京大職員・学生は無料)
企画展の概要

明治政府は、文明開化・殖産興業政策を推し進めるため、法制・産業・軍事・教育・芸術などの幅広い分野にわたって、外国から専門家を招き、その指導を受けた。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれ、日本の近代化に大きな役割を果たした。

エドアルド・キヨッソーネ(1833~1898)も、そうした「お雇い外国人」の一人である。彼はイタリア人で、若くして芸術的才能を謳われた銅版画家であったが、1875(明治8)年に紙幣寮(現在の大蔵省印刷局)の招きをうけて来日した。

キヨッソーネは、近代的な製版法や凹版彫刻、印刷技術を日本に伝え、紙幣や切手の国産化を成功させた。彼の指導により、日本の紙幣製造技術・印刷文化は、一気に世界的水準に高まったと言われる。

また、キヨッソーネは宮廷画家としても活躍し、多数の銅版肖像画を製作した。全国に配布された明治天皇の「御真影」や、大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視など明治の元勲たちの肖像画は、みな彼の手になるものである。

本年はキヨッソーネの没後から100年にあたるため、その作品と関係資料を集めて企画展を開催することにした。彼の優れた業績をしのび、近代初期の日本とイタリアの文化交流の跡をたどっていただければ、さいわいである。

なお、この企画展の開催にあたっては、大蔵省印刷局記念館(お札と切手の博物館)とイタリア文化会館のご協力を得た。ご努力とご協力に心から感謝したい。

主な出展品
銅版画「袋のマドンナ」
イタリア時代の作品。簡潔な画線による凹版彫刻が美しい。
肖像画「大久保利通像」
銅版肖像画。多彩な技法を駆使して大久保の人物像を表現。
肖像画
肖像画「大久保利通像」
肖像画「明治天皇像」
「明治天皇御軍装」の肖像画。「御真影」とは別のもの。
肖像画
肖像画「明治天皇像」
肖像画「岩倉具視像」
かつての500円紙幣で見慣れた肖像画。
肖像画「西郷隆盛像」(複製)
西郷従道と大山巌の顔を合成して描かれたコンテ画。原本は焼失。
肖像画
肖像画「西郷隆盛像」
紙幣・切手神功皇后1円券、武内宿祢1円券、小判切手、印紙など多数。
5厘切手、20銭切手、8銭切手、4銭切手
キヨッソーネにより彫刻された小判切手
壱圓券の画像
改造紙幣(神功皇后札)1円券
『国華余芳』正倉院御物 キヨッソーネの文化財調査旅行の成果。多色石版印刷による図録。