ニュースレター

No.15(2003年6月25日発行)

表紙

表紙写真

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表紙の資料写真について

写真:平瀬貝類コレクション

  • クチジロマクラ Olivahirasei (左)
  • ヒラマキエンザ Hiraseaplanulata(右上)
  • ヒラセキセルモドキ Hiraseaplanulata(右中)
  • オオシマチョウジガイ Mormulahirasei(右下)
平瀬貝類コレクション

京都市岡崎に大正2~8年に貝類博物館を開設した平瀬輿一郎氏の所蔵標本の一部だった9295点が、理学研究科動物学教室および地質学鉱物学教室に保存されてきた。明治期に収集された充実した国内外産の貝類標本コレクションである。すでに絶滅した地域個体群の標本を含むなど、貝類分類学や環境変遷の研究にとってきわめて重要であるとともに、明治・大正期の科学史を知る上でも貴重なものである。

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館長に就任して

山中 一郎

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平成15年4月1日に京都大学総合博物館長に就任いたしました。従来から活動を続けておりました文学部博物館に、自然史の部門をつけ、さらに技術史の部門の芽を将来的に伸ばしておくという形で、新しい組織が創設されてから7年目を迎えています。そのあいだには、自然史部門の標本収蔵・保管庫を擁する南館が新築され、学内の諸部局から貴重な学術標本を200万点ばかり運び込みました。そして学内の諸先生方のご協力を得て、自然史の常設展示が完成し、さらに京都大学が誇るべき学術成果を博物館展示の形で示す企画も併わせて、平成13年6月1日に一般有料公開を始めたのでした。

7年前に、わが国の国立大学にある数々の学術標本のこれ以上の散逸を防ぎ、今後の研究や教育の進展のための保管・活用を図るとともに、一般の方々、とくに次代を担う若い人々の科学に対する意識向上に資するために、博物館の組織を創設することになりました。まず京都大学と東京大学に設置され、それ以後さらに6つの国立大学が総合博物館に類する施設を所有するに至っています。ただし大学によって、その組織構成、研究者陣容、展示公開のあり方などは大きく異なっています。

博物館の歴史を顧みますと、専門分野を単独化させた博物館が、学問の専門分野の細分化に対応するかのように目指されてきたと思われますが、その傾向とは逆に、大学の所有する学術標本に応じて、それらをまとめて活用する構想が描かれることになりました。それはそのような形でしか組織を立ち上げることができない局面に立ち至るまで「放置」されてきた現実があるということかもしれません。後続する国立大学の「総合博物館」で一般有料公開に至っていないことは、あるいは専用の新築建物を見るに至っていない事情はこの事実を反映しているのかもしれません。しかしこの「総合化」はやはり便宜的な措置と考えて、総合博物館の運用・活用に知恵を絞ることが求められていると言えましょう。

京都大学の場合を話しますと、総合博物館がもっとも気を遣うべきであるのは、収蔵・保管している学術標本の維持管理と研究・教育への活用を図ることでありましょう。文化史の分野は、文学部以来の日本史学、考古学、地理学の3つからなり、長いあいだにわたって蓄積してきた史・資料が30万点をこえてあります。国宝・重要文化財の指定を受けている物件を含めて、保管に気を遣うべき文化遺産も多く含まれています。それに加えて、自然史の分野の標本には、100万点をこえる植物標本をはじめとして、22万点に及ぶ動物標本や、それぞれが数万点の昆虫標本や化石標本があります。このような多種類の、しかも膨大な標本をもつことですから、研究や教育への活用と言いましても、資料・標本の種類によって異なる扱いを必要とすることに難点(?)があります。取り扱いで異なった対応を求める標本をまとめて保管することが必然的にもたらせる「無駄」を避けるべく、博物館の専門分野ごとの単独化が進められてきているのですから、「総合化」の形で博物館を設ける便宜性が求められるとすると、資料・標本の活用を進めるためには、他のサーヴィスが第二義的になることは許されなければなりません。そうではありますがやはり、「総合化」した博物館の活用を真剣に考えるべきであると思います。

わたしたちは、博物館専任の研究者として9人を擁しています。細分化された分野に従事しているとはいえ、大きく言えば魚類分類学、植物分類学、動物分類学、古生物学、機械工学(技術史担当)、昆虫生態学、先史学、日本史学、地理学を、それぞれが専門としています。しかし「総合化」はこれらの専門の分野以外の標本をも博物館にもたらせることになりました。

また芽を出しておく形をとると、初めに書きましたが、技術史の分野は、人間社会のなかへの主として自然科学的技術の応用の展開を、時間の流れのなかから概観することを基礎的立場とするのですから、純粋な基礎科学から見ますと、1人や2人のスタッフでまかなえる対象ではないことは明白です。幸いなことに京都大学には、実に多様な面で研究を独創的に進めておられる先生方が大勢おられます。そこでわたしたちの運営委員会のあり方を鋭意検討し直して整備を図り、そうした先生方のお力を、博物館を使っての研究の成果のご発表はおろか、研究や教育そのものの進展に役立てる試みをしていただけないものかと願っているところです。

平成16年度からは、京都大学も大学法人化を迎えます。総合博物館も中期目標を掲げて、研究・教育への標本の活用をはじめ、京都大学全体の学術活動を展示の形態で示して、一般の方々に知ってもらうための窓口の役割を担おうとしています。また研究の成果を一般の人々に直接的に話しかける場を作り出そうとしています。そして大学は、この姿勢をサポートしてくださるという言葉を、中期目標に明言されることになりました。

しかし大切なことですが、こうしたわたしたち博物館の存在は、将来的に保証されるものではありませんし、また長期的な保証を求めるするべきでもありません。中期的に期限を決めてその歩みを自ら、そしてより適切な表現としては、大学全体の見地から、存続の是非を含めて評価していくべきものであると確信いたします。10年もすれば常設展示を更新する必要がでてきますので、そのための労力と、とくに巨額にのぼる経費負担になじむかという問いへの判断に迫られると思いますのでこういう言い方になるのです。ただ貴重な文化遺産や学術標本の保管はどうあるべきかという問題や、全国の国立大学レベルでの総合博物館に類する施設のあり方と連動する必要がありますので、単純に答えを出すことはできないとは思います。

大学法人化する京都大学のもとの総合博物館が1年の後には確実に始まりますが、それは、文化史系の博物館としての歴史はいうまでもなく、この6年の総合博物館としての歩みのうえにつなげていかざるをえません。そしてさらにその次のステップへとの歩みを期待される存在になるべく、わたしたちは鋭意模索し、実を結ばせていこうとしています。 

(総合博物館館長)

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平成15年春季企画展

「日記が開く歴史の扉」-平安貴族から幕末奇兵隊まで-

岩﨑奈緒子

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2003年4月23日から5月25日まで、本館二階の展示室において、総合博物館・附属図書館・文学部の所蔵する日記を一堂にならべた企画展「日記が開く歴史の扉ー平安貴族から幕末奇兵隊までー」を開催した。

今回の展示の目玉の一つは、総合博物館の所蔵する『兵範記』断簡の初公開であった。平信範の日記『兵範記』は、院政時代の研究の根本史料ともいうべき史料で、重要文化財に指定されている。総合博物館の日本史標本は文学部から受け継いだものであるが、二十年余り前、それら史料群のうちの平松家文書の中から、平安時代のものと思しき日記の断簡(断片)群が見いだされ、本学名誉教授である上横手雅敬皇學館大学文学研究科教授によって研究が進められた。百葉を越える断簡の時期を特定し順序を確定するという困難な作業がなされ、平成十一年に住友財団の助成を受けて修復が施された。

失われていた『兵範記』の再生。これを契機に、そのお披露目を兼ねて、京都大学の日記のコレクションを一堂に見せようという企画が立案されたのであった。

日記の歴史は古い。日本では、平安時代、貴族たちの間で個人が日記を書くことがはじまった。伝統を重んじる貴族社会では、過去の記録が尊重され、人びとは自分のため、子孫のために日記を残した。日記を書く階層は時代が下がるにつれて次第に広がり、近世になると庶民にまで日記をつける文化は普及していく。日々のできごとの記録である日記には、あることがらについての情報が時間の経過に即して残され、また、書かれた事実もおおむね信頼できるという特徴を持っている。日記は、歴史を知ろうとする上で欠くことのできない貴重な史料なのだが、こうした歴史的事実の宝庫としての日記の魅力に加えて、いまに残る日記を考える上で重要なのは、祖先の日記を残そうして努力してきた先人たちのはたらきかけである。それらをどのように表現するのかが、展示のポイントとなった。

第一部の「歴史資料としての日記」では、貴族の社会において、書かれた日記が伝えられ、活用される様子を、第二部の「古代・中世の日記」では、個人の日記として最も古い藤原道長『御堂関白記』を起点として、貴族の世界で日記文化が花開く様子を、第三部の「近世の日記」では、日記文化が階層を越えて展開していく過程を表現した。

展示を実施するに際して、藤井譲治文学研究科教授・吉川真司同助教授には、企画段階から全面的に参画いただいた他、上横手雅敬名誉教授、元木泰雄人間環境学研究科助教授、野田泰三文学研究科助手のご尽力があった。また、文学部日本史研究室の院生の参加も特筆しておきたい。これは、総合博物館の前身の文学部博物館時代からの手法であるが、大学院生に対して現文書に触れる機会を提供する場として有効なばかりでなく、こうした方法をとることによって、今回の展示に複数の初公開史料を加えることができた。

最後になったが、貴重な史料をご出陳くださった陽明文庫・京都府立総合資料館をはじめとする所蔵者の方々に感謝の意を表したい。

(総合博物館助教授・日本史学)

ごあいさつ

古代以来、わが国には公私にわたって数多くの日記が残されてきました。古代国家の公務日記に始まり、伝統を重んずる公家社会において隆盛を極めた日記文化は、時代が下るとともに身分を越えて種々の階層に広がりを見せます。日々書き継がれる日記は、その記載内容がおおむね正確であるため、歴史を知るための基本資料とされてきました。

とりわけ公家社会においては、明治になるまで、先例・故実を知る手がかりとして、日記が尊重され活用されました。公家たちは、日々の行事や事件を円滑に処理するために、過去の日記をひもときました。儀式のマニュアルを手にすべく写本や目録を作り、さらには、複数の日記を土台にした特定の儀礼に関わる編纂物なども生み出したのです。今に残る日記には、祖先の残した日記を大切に伝えようと心をくだいた人びとの思いが込められているといえます。

この企画展では、京都大学総合博物館・附属図書館・文学部の所蔵する日記のコレクションを中心に、財団法人陽明文庫・京都府立総合資料館のご協力を得て、平安期から幕末までの日記を一堂に並べてみました。また今回、総合博物館の所蔵する『兵範記』の断片(断簡)を初めて公開することになりました。ここに紹介するのは、院政期の貴重な史料である『兵範記』の欠を一部で補うものです。

日記の伝える史実と、日記を残してきた人びとの意志とを感じ取ってくださり、日記に重ねられた「歴史の声」に耳を傾けていただける機会となれば幸いと存じます。

最後になりますが、展示の趣旨をご理解いただき、貴重な史料をご出品くださった所蔵者、ならびに多大なご協力をいただきました関係者のみなさまに心よりお礼申し上げます。

総合博物館館長 山中一郎

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【公開講座】「日記が開く歴史の扉」

平成15年5月10日、17日に京都大学学術情報メディアセンター「北館」において開催されました。

わが国には古代以来数多くの日記が残されてきた。古代国家の公務記録や平安貴族の私日記、武家・寺社の日記など書く主体はさまざまであるが、日々書き継がれる日記はその内容がおおむね正確であるため、歴史を知るための基本資料とされてきた。本講座では、平安期・院政期・室町期・江戸期の各時代の日記をとりあげ、その日記が残された時代相や日記の伝える史実についてわかりやすく解説する。

5月10日(午前の部) 日記のはじまり 大学院文学研究科助教授 吉川真司

5月10日(午後の部) 後陽成天皇と観修寺光豊
大学院文学研究科教授 藤井讓治
5月17日(午前の部) 室町時代における日記の展開
大学院文学研究科助手 野田泰三
5月17日(午後の部)  新紹介の兵範記を中心として
京都大学名誉教授 皇学館大学大学院文学研究科教授 上横手雅敬

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【収蔵資料散歩】植物標本がもたらした遺産

当山昌直

唐突ながら、ここでいう遺産というのは植物標本を挟んでいた古い新聞のこと。これが地域の歴史に大きな貢献をすることになる。標本を作製していた当時の方々は、標本に使用した新聞が、後に貴重な遺産になることは全く予想していなかったかもしれない。植物標本と地域の歴史という、想像し難いような組み合わせがあるのでここに紹介しよう。

絶滅した沖縄の古い新聞

信じられないが本当だった。沖縄島で発行された戦前の新聞は、その大半が現存しないということだ。理由が二つある。個人保管がなかったことである。新聞はサイズが大きく、毎日のように発行されるので保管は場所をとるからだ。頼るのは図書館等の施設しかない。ところが、戦前の新聞は県立図書館に保管されていたようだが、それが戦争によってすべて焼失したという。つまり、絶滅である。 沖縄では絶滅した戦前の新聞が一部本土に残されていた。確認されている全紙状態の新聞は、1898年(明治31)4月から1918年(大正7)5月までの『琉球新報』と1909年(明治42)2月から1914年(大正3)12月までの『沖縄毎日新聞』がほぼ連続して国立国会図書館に、また1936年(昭和11)11月から1940年(昭和15)12月までの『琉球新報』と『沖縄日報』が非連続的ではあるが國學院大学に残っている。

地域史と新聞

ここで少し、私がなぜこの世界に踏み込んだのかを説明しよう。私は、生物学出身で、これまで博物館学芸員や理科教諭等の自然科学系の仕事を携わってきた。当然、歴史や新聞等のことについては門外漢である。このような中、現在の職場に配置され、沖縄県史の自然環境編を担当するようになった。そこでは研究史も含め、自然と人との関わりという視点から資料収集をすすめているが、自然と人を結びつける一つの手がかりが新聞にあることがわかった。それから戦前の新聞を調べるようになったのではあるが、新聞を調べていく内にその大半が無いという事実を知ることになったのである。

県史や市町村史を編纂する場合は、まず新聞を調査し、関連記事を新聞集成としてまとめるのが常套手段の一つである。戦災で多くの歴史資料を焼失した沖縄では、新聞は広告も含め当時の情報がいっぱい詰まっており、日々の状況を知る上で手がかりとなる一級の史料であるからだ。 前述したように、全紙大の新聞が図書館等以外では残される機会はほとんど無いのだが、一つだけ例外があった。それが大学等に残っている植物標本を挟んでいる新聞だったのである。その手がかりを求めて私の古新聞探しが1987年11月京大植物学教室を皮切りに始まった。

植物標本を探して

1998年2月東京大学法学部附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫を訪ねた。ここでは、東京都立大学理学部牧野標本館で整理を終えた植物標本用新聞を受け入れ保管し、重複分は高知県立牧野植物園に送付するという作業が進められている。牧野富太郎の植物標本ということもあって、戦前の樺太や満州をはじめ、全国各地の古い新聞が集まっているようだ。ところが、同じ東大内でも、総合研究博物館や附属植物園には、このような古い未整理の標本はほとんど残っていないということであった。退官された教授の話によると、日々標本の整理を進めながら、出てきた新聞は古すぎて捨てることもできず、燃やし続けていたそうである。つまり、牧野標本以外に大学に残っていた古い新聞は、当然のことながら、標本が整理され次第処分されていったわけである。

博物館は宝の山

京都大学に総合博物館ができた。2002年10月京大植物学教室を3回目の調査で訪ねると、教室の段ボールに入っていた未整理標本等は総合博物館に移されたという。博物館の収蔵庫に案内されて驚いた。引越後ということもあって段ボールが山積みされているのだ。後で聞いた話では約2千箱あるらしい。附属植物園など学内の施設から標本が集まってきたのだ。採集標本の中には番号が付されていないのもあって、不幸中の幸いか、これらのほとんどが未整理らしい。その一部をみる機会があった。戦前の樺太、満州、台湾などの新聞、そして全国各地の新聞が散見された。明治、大正、昭和期の沖縄の古い新聞もみつかった。みつけた時は感激で思わず声を上げてしまう。オーバーに言えば、新聞1枚で、沖縄の1日分の歴史が明らかになるということである。まさに段ボールの山は、宝の山である。

さいごに

胴乱をさげ、野山を駆けめぐり、植物を採集、そして収集してきた植物を整え、丁寧に新聞に挟んで重ねる。このように苦労して収集してきた植物標本。植物研究者らは、自分が収集した標本が植物学の進展に貢献するものと信じていたはずだ。しかし、それが歴史(地方史)にも貢献するところまでは想像できなかったかもしれない。

植物標本に使われた古い新聞のことについては、一般的によく知られていない。これからがおもしろくなるのだが、その前に標本整理が進まないようにと願うのは罪だろうか。

本稿をまとめるにあたり、調査の機会を与えて下さった京大総合博物館永益英敏助教授、植物学教室村上哲明助教授に感謝します。

(沖縄県文化振興会史料編集室 主幹 当山昌直)

文献
法学部附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫,1998.牧野新聞コレクションについて.東京大学附属図書館報 図書館の窓,37(6):85-87.
北根 豊,1988.明治文庫の<宝の凾>─牧野富太郎の思わぬ遺産.図書館科学,(4):1-3.
下地智子,1997.明治・大正期に沖縄本島内で発刊された新聞の保存状況.pp.45-74.平成7・8年度文部省科学研究費補助金(基礎研究A)研究成果報告書 近代沖縄の文学資料の収集・研究とデータベース化,琉球大学法文学部.

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植物標本を挟んでいる新聞の中から出てきた明治期の琉球新報

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植物標本のなかから出てきた昭和期の沖縄日日新聞

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他地域の標本を挟んでいた明治期の沖縄毎日新聞

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松かさを包んでいた明治期の沖縄新聞

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【研究集会】パリ盆地の後期旧石器時代

-新しい石器技術学から-

山中一郎

2003年2月8日に、パリ第I大学(ソルボンヌ)助教授(先史学担当)のボリス・ヴァランタン(BorisVALENTIN)博士と、パリ第X大学(ナンテール)講師(国立科学研究所研究員)のピエール・ボデュ(PierreBODU)博士が京都大学総合博物館の研究集会のために来日して、一般の方々への公開で、研究発表をおこなった。技術学的石器研究は、先史学における最新の開拓分野のひとつと見なされ、石器研究法の革新を進める若手研究者を惹きつけている。来日した2人は、その分野の第一人者であり、「古歴史学(Paleohistoire)」を標榜する旗手として、研究を国際的にリードしている。

2人の研究フィールドはパリ盆地であり、その研究対象は主として後期旧石器時代である。ヴァランタン博士は、ほぼ13000~12000年前の後期旧石器時代最末期のパリ盆地のデータをまとめて、その年代幅に収まる複数の遺跡の比較を試みた。C14年代数値は、厳密な意味では幅をもった年代しか与えてくれないと言えるので、それに加えて、従来からの石器型式学的検討に、さらに新しく技術学的な石割りのデータを加味させる議論を展開した。この新しい視点に立った研究にあって、その遺跡間比較を成立させる基礎的知見は、複数の重層位遺跡の発掘調査によって意図的に収集されたものであった。しかもその発掘調査は、1990年代に目的的になされており、わが国におけると同じように「行政発掘」の機会を捉えた計画的な展開である点は注目に値する。

適切な言い方ではないかもしれないが、わが国では1970年代に東京都教育庁の小田静夫さんらによって、日本先土器時代の石器群が層位的関係を知る目的で精力的に掘り出されたことを思い出させた。2万年間に及ぶ時間幅に位置する複数の遺跡の出土資料を、層位的データの対比としてまとめるとともに、石器資料を属性組成的に認識する試みには筆者も参加させてもらった。ヴァランタン博士は、1千年間の時間幅での資料をまとめ、そこに認められる石割りの技術的特徴を抽出して、従来からなされてきた型式学的データと併わせ検討する。パリ盆地にはアジル文化の進展をみるが、1万年前よりも下って、石割りの仕方ががらりと変わるベロワ文化が出現し、これは北東方のアーレンス文化や南西方のラボリ文化の影響を受けて成立すると論じた。ベロワ文化やラボリ文化は1990年代の研究でその存在が明らかにされた石器文化である。

ボデュ博士は、有名なパンスヴァン遺跡IVー20面の石器資料に接合関係を見つけてできるかぎりひっつけることで、石を割る技術についてのデータを整備するとともに、動作連鎖の概念に基づいて石割り作業が展開された跡を、その場におけるヒトの行動として復原させた研究で高く評価されている。今回の研究発表では、後輩のヴァランタン博士の古歴史学を基調とするとして、パリ盆地のそれ以前の後期旧石器時代を前座的に概観するとされていた。そこで是非ともパンスヴァンのご自身の研究は比較的詳しく付け加えてほしいと要望しておいたのである。広大なパリ盆地のそのような長い期間のヒトの歩みを概観するには、発掘されている遺跡の数が乏しすぎることはもちろん否めない。後期旧石器時代が始まるシャテルペロン文化から、オーリニャック文化、ソリュートレ文化と続くが、その35000年前ころから17000年前ころのあいだはとくにそうである。しかし石器研究法における重要な指摘とともに、従来からの知見とはかなり異なった見解が述べられた。

ひとつは、槍先などとして使われたと思える、見事な両面調整の石器が作られたことに特徴をもつソリュートレ文化についてである。石器の製作技術では最高の段階に到達したとされるこの文化は、氷河期でももっとも寒い時期にあたり、パリ盆地は北に位置しすぎているので、ヒトは南に移動してしまっていて、ヒトの痕跡は乏しくしか残されていない、とされていた。1990年代に調査数が増加したおかげで、果たして、18000年前ころのソリュートレ文化人はパリ盆地にも活躍していたらしいことが認識されるようになった。

もうひとつは、グラヴェット文化における細石刃の普遍的な剥離の事実についてである。1万年前ころの旧石器時代の最末期を特徴づける細石刃は、3~4cmの長さが幅の2倍以上となる両縁が平行する細長い石片で、それを骨角器などに嵌め込んで機能を強化したり、そろえて柄に埋め込んでナイフなどの機能部をなしたとされるのであるが、実は3万年前ころからかなり作られていたということである。そうした細かい石片を割り取るのに用意され、そして残りかすとなって捨てられた石塊は、従来はそれが「石器」として何かを彫り、削った道具と考え、レイス型彫器と呼ばれていた。その割り取りのための叩きをを施す面を作り出したときに生じた石片が、残りかすとして最終的に捨てられた石片にひっつけられ、「レイス型彫器」にかかわる動作連鎖が復原できた結果、道具ではなくて、石割り作業の残りかすと認識されるようになった。

2人の発表を聞いてとくに新しいと思った視点は、石が割られる姿が資料に対してかなり具体的に把握されていたことで、相当の研究の蓄積があると感じさせられた。石を割り取る動作(ジェスチュアー)は、用いられる道具ともあいまって、時間と地域を異にする過去のヒトの集団のあいだでかなり明瞭な差を示すことが最近の技術学的研究で明らかにされてきているのである。この点での研究の遅れ、あるいは過去の研究法に固執しすぎる日本考古学の傾向が藤村さんの長いあいだの「ねつ造」を許してしまったと言えよう。

わたしたちは、藤村さんの悲しい事件を克服するためには、研究法の革新をもって取組み直すしか術のないことを主張した。そのための研究集会を企画し、今回はその第2回目であった。国際的に先頭を切って石器研究をリードする2人の若手研究者を総合博物館に迎えることができたことを嬉しく思う。ここに内容の一部を紹介したが、極めて専門的で質の高い研究発表を聞いた。5時間以上に及んだ講演会に、一般の聴衆も根拠のある推論を追う知的ゲームを楽しんだ。なお参加者は総合博物館に団体入場料金を支払われた。

(京都大学総合博物館長・考古学)

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坂出市のサヌカイト原産地を訪ねたときに石を割るボデュ博士と、それを見るヴァランタン博士

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【研究ノート】ロンドンの自然史博物館

本川雅治

私は平成13年度文部科学省長期在外研究員として2001年11月から2002年10月までの1年間,イギリスのロンドンにある自然史博物館で「東アジア産小型哺乳類の種分化と系統分類に関する研究」というテーマで在外研究を行う機会を得た.自然史博物館は,大英博物館自然史部門を前身とする250年ほどの歴史をもつ世界的に最も著名な博物館の一つである.私は哺乳類の系統分類学の研究を行っているが,これから述べるようにその研究上,そしてまた大学博物館で標本管理を行う立場という2つの点から訪れたいと思っていた博物館であった.

今回の主な目的は東アジアの哺乳類標本,特にモグラ類,トガリネズミ類,アカネズミ類を形態学的に調査することであった.具体的には,自然史博物館に収蔵されている頭骨や剥製標本を,肉眼あるいは実体顕微鏡下で特徴を調べたり,各部位をノギスで計測したり,博物館のラベル情報を書き写したり,それらの写真を撮ったりするのである.毎日,カバンにノート,鉛筆,ピンセット,ノギス,時々はカメラを入れて,家から自然史博物館へと出かけて行った.最近の系統分類学では遺伝子を調べることも多いが,そんなこととは無縁の,古くさい方法の研究である.

私が取り組んだのはいずれも混乱したグループの種分類の再検討である.標本のラベルに書かれた学名が正しいとは限らない.例えばAとBとされている種が実は同じ種かもしれないし,AとBの一部が同じ種でBの残りは別の種,またはAの一部とBの一部,Aの残りとBの残りがそれぞれの種なのかもしれない.したがって,分類を見直すには結局一つずつの標本について詳しく調べていくことが必要である.先の見えない手探り状態でも,とにかく一つずつ標本の観察や計測を行い,その過程で部分的にでも分類体系を見直し,それらを踏まえて標本を見直す,こうした作業の繰り返しによって,はじめて適当な分類体系を再構築することができるのである.今回調べた中には1000点以上の標本調査を含むテーマもあった.標本を一つずつ見ていくというと気の遠くなるような反復作業と思われるかもしれないが,実際には数を見ていくにつれ,まるで標本が語りかけてくるかのようにいろいろなことがわかってくるのである.

さて,東アジアの標本を調べるのに,なぜイギリスに行くのかという疑問があるだろう.哺乳類では20世紀初頭のまだ日本や東アジア各国で哺乳類の研究が行われていない頃,イギリスのベッドフォード侯爵が東アジア動物探検と題して,採集人アンダソンらを日本,朝鮮半島,中国,ロシアなどに派遣し,膨大な数の標本を収集し,それらを自然史博物館のトマスに研究させたのである.トマスは数多くの新種や新亜種をこれらの標本に基づいて記載し,そうしたタイプ標本のほぼすべてが自然史博物館に収蔵されている.タイプ標本はそれぞれの学名の基準となる唯一の標本であり,分類の混乱したグループの種分類の研究にはタイプ標本の調査が不可欠である.ベッドフォード標本はタイプ標本もそうでない標本も,まもなく100年が経とうとしているのに完璧に近い良好な状態で保存されている.また,自然史博物館にはその他のイギリスの調査団によって採集された,あるいは日本人研究者が寄贈した東アジアからの哺乳類標本も収蔵されている.後者には,戦前に日本の哺乳類分類学の研究を精力的に行った黒田長礼氏のものも含まれている.彼の標本のほとんどは戦争により消失していて,その意味で自然史博物館に貴重なものが含まれることも今回の調査で明らかになった.

さて,自然史博物館での標本はどのように管理されているのであろうか.すでに述べたように哺乳類の多くの標本は剥製と頭骨で,10階建てほどの建物の各階に分類群ごとに収蔵されている.一方,一部はホルマリンやアルコールに液浸標本として保存され,同様の他の脊椎動物などと一緒に新設のダーウィンセンターに収蔵されている.このダーウィン・センターは2002年9月から一般公開もされ,一般客が研究標本の一端を見れるようになった.ところで,日本の博物館について標本の保存が適切でないとよく言われ,何世紀にもわたって保存されているロンドンの自然史博物館をはじめとするヨーロッパの博物館と比較される.では,日本の博物館がどのように標本を収蔵するのがよいのかについて考えてみた.すると,日本には標本を破壊する要素がヨーロッパと比べて格段に多いことに気づく.強い太陽光と紫外線,高湿度,温度の年較差(これらは1年間の生活で身をもって感じた),害虫の高い発生率,地震などである.つまり,日本の博物館はヨーロッパのまねをするだけではなく,より適切な保存環境の維持や収蔵方法を新たに開発することも必要なのである.さて,京都大学総合博物館ではすでにいくつかのアイデアが標本収蔵室の設計や運営に反映されている.今回,自然史博物館で見てきたことがその改善や改良に大いに役立つものと確信している.

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19世紀に建設された自然史博物館

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21世紀に新設されたダーウィンセンターの外観

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2002年9月より一般公開されているダーウィンセンター第1期へのエントランス

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植物昆虫標本を対象に第2期が計画されている。

(総合博物館助手・哺乳類分類学)

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京都大学総合博物館日誌(平成15年2月~5月)

  • 2月14日 第66回教官会議
  • 2月22日 レクチャー・シリーズ no.4「ヒマラヤ高山の温室をつくる植物、セーターを着る植物」開催
  • 3月14日 第67回教官会議
  • 3月15日 レクチャー・シリーズ no.5「化石から解き明かす多細胞動物の起源」
  • 3月21日 春休み学習教室「三葉虫を調べよう」「化石を使って進化年表をつくろう」開催
  • 3月29日 レクチャー・シリーズ no.6「無酸素環境に住む生物の話」
  • 3月31日 外国人研究員 ミカイル・アレクサンドロヴィッチ・フェドンキン氏(ロシア連邦・ロシア科学アカデミー古生物学研究所研究室長)
  • 4月 1日(人事異動)
    総合博物館から配置換
    掛 長 清水 尚 経理部経理課第二給与掛長へ
    掛 員 河田友彦 理学部等事務部経理課経理掛主任へ
    他学部等より転入
    掛 長 村田敏雄 附属図書館総務課経理掛長より
    新規採用
    事務官 服部敦史
  • 4月 1日 外国人研究員 ヨハン・ホーエネッガー氏(オーストリア共和国・ウイーン大学古生物学研究所所長)来学
  • 4月11日 第68回教官会議
  • 4月23日 平成15年春季企画展「日記が開く歴史の扉-平安貴族から幕末奇兵隊まで-」開催
  • 4月26日 レクチャー・シリーズ no.7「原人の世界」開催
  • 5月 9日 第69回教官会議
  • 5月10日・17日 第13回公開講座
  • 5月18日 レクチャー・シリーズ no.8「大型有孔虫:熱帯の海の庭師にして建築家」開催
  • 5月25日 平成15年春季企画展「日記が開く歴史の扉-平安貴族から幕末奇兵隊まで-」終了
  • 5月31日 開館2周年記念催し、レクチャー・シリーズ no.9「ランビルの森-熱帯雨林の生物学-」開催