ニュースレター

No.13(2002年10月25日発行)

表紙

表紙写真

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表紙の資料写真について

写真:輝安鉱

輝安鉱(stibnite,Antimonit)Sb2S3。斜方晶系(写真の標本の長さ約27cm)

もとは農学部に所蔵されていた。総合博物館発足後まもなく、直前まで農学部に所属の中坊教授に導かれ農学部のプレハブづくりの収蔵庫の地学標本調査をした折りに再発見。日本各地の鉱山より産出の鉱物標本群の一つ。

愛媛県市ノ川鉱山産で、伊藤貞市・桜井欽一改編の日本鑛物誌上巻(1947、中文館書店)には、「結晶片岩中の石英脈より産出す」とある。明治14年から明治15年にかけては、とりわけ大きな結晶を多産、世界の著名な博物館に市ノ川の輝安鉱として収蔵・展示されている。

農学部から発見された日本産鉱物標本は総計400点を超え、今はすべて閉山してしまった鉱山からの美品揃いで、一級の学術的価値を有するコレクションである。現在学内外の協力を得て、整理を行っている。

鉱物は、農の礎たる土壌の重要な構成要素である。それを、教育するために第一級の鉱物標本群が整備されたのであろう。やがて80周年を迎える農学部、その創設当時の教育に対する意気込みを今に伝えるコレクションでもある。

(文責:大野照文)

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平成14年度特別企画展 近代日本を拓いた物理実験機器

-三高コレクションと物理学教科書から探る-

永平幸雄

京都大学総合博物館に、第三高等学校由来の古い物理実験機器が628点保管されている。これら三高実験機器コレクションは、もともとは総合人間学部の図書館の地下室に収納されていたが、2001年6月に総合博物館の収納庫に移された。総合人間学部に収納されていた時代から、三高コレクションの調査研究が進められ、その成果として、2001年7月に京都大学学術出版会より、『近代日本と物理実験機器』(永平幸雄、川合葉子編著)が出版された。こうした長年にわたる調査研究をもとに企画されたのが、この特別展示である。

三高コレクションの特徴は、歴史が古いこと、所蔵点数が多いこと、関連古文書が豊富なことにあり、そのことが、三高コレクションを国内第一級の物理学史資料としている。実験機器保管台帳が11冊と保存されていたので、多くの実験機器の購入年や購入価格、購入先等を明らかにすることができ、所蔵機器数628点中562点について購入年等が判明した。また明治14年以前に購入した実験機器が50点も存在し、明治初期の実験機器が多数含まれていることが明らかとなった。第三高等学校とその前身校の古文書は、総合人間学部図書館の三高資料室に豊富に保存されており、それらによって、実験機器の購入経路等をさらに詳細に明らかにすることができた。

今回の展示では、これら三高コレクションの実験機器、関連古文書、当時の物理学教科書を展示して、第三高等学校における物理教育と物理学研究の歴史をたどり、それらを通して、近代日本における物理実験機器の製造と利用の歴史を示すことを試みた。展示点数は、実験機器66点、物理書25点、古文書15点である。

展示項目を以下に列挙した。まず、明治以降、学校制度の確立、物理教育の拡大とともに、物理実験機器が多量に必要となり、実験機器の国産化を推進するため、欧米から製造技術を学びとったことを説明した。ついで、第三高等学校とその前身校における物理教育・研究の発展を三高コレクションから示した。最後に、展示開始時点での日本のノーベル物理学賞受賞者3名がすべて第三高等学校出身者であった(今年のノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊氏は第一高等学校出身)ので、第三高等学校時代の湯川、朝永、江崎を紹介し、また湯川秀樹が自伝の中で述べている実験機器を展示した。

1.日本の近代化と物理実験機器製作
  1. 技術伝習生の欧米への派遣
  2. 製作技術を学ぶ学校の設置
  3. 国内の物理実験機器製造業者の成長
  4. 博覧会で実験機器製作技術を競い合う
2.第三高等学校の物理教育と物理実験機器
  1. 明治2年の舎密局から明治7年の大阪外国語学校まで
  2. 英語による物理教育が行われた大坂英語学校
  3. 待ち望まれた高等教育機関への昇格:明治12年の大坂専門学校
  4. 大学予備教育機関への逆戻り:大坂中学校
  5. 第三高等中学校時代:明治19-27年
  6. 専門学校としての第三高等学校:明治27-30年
  7. 第三高等学校・大学予科時代:明治30年から昭和26年まで
3.ノーベル物理学賞と第三高等学校
  1. 日本のノーベル物理学賞授賞者はすべて第三高等学校出身
  2. 第三高等学校で同級生として競い合った湯川と朝永
  3. 湯川秀樹と物理実験

近年の博物館には、来館者が実際に体験し、単に展示物を見るだけでなく、展示内容を実感できるような展示が期待されている。本展示では、実験教室と名づけて、2部屋をそのような体験場所に当てた。三高コレクション中には、今日ではもう行われなくなった、すなわち、「歴史に埋もれた実験機器」とでも言うべき実験機器が多数含まれている。それらの中で今回展示している実験機器から、簡単な物理知識で理解でき、かつ安全で危険性のない実験機器のレプリカを5点作成した。「7鏡による光の再合成器」、「魔鏡」、「対円錐と斜台」、「金属反射凹鏡」、「地磁気で電流を起こす装置」、「導線が磁石に巻き付く装置」を実験教室に備えた。

その一つ、「7鏡による光の再合成器」(図1)をここで取り上げる。実験機器の保管台帳に、「スペクトラ色ノ合一ヲ示ス器」と書かれていたもので、第三高等学校が明治35年にドイツのE.Leybold社から39円43銭5厘で購入した製品である。細長い木板上に7個の鏡が一列に並んでいる。図2は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて世界中で人気を博したGanot物理学書の挿絵であるが、この挿絵を見ると、この実験機器の使用法がよく理解できる。窓の外からスリットを通して取り入れた太陽光線をプリズムで7色にスペクトル分解し、それぞれの色の光を7個の鏡で反射して、天井の1点に集める。すると、白色光に戻っていることがわかる。白色光がさまざまな波長の光の集まりであることを示す実験である。ニュートンは1704年出版の『光学』でそのことを示したが、ニュートンの実験では、凸レンズを使って白色光に戻していた。

図1 7鏡による光の再合成器
図1 7鏡による光の再合成器
(明治35年購入、京都大学総合博物館蔵)

図2 Ganot物理書中の「7鏡による光の再合成器」の説明図
図2 Ganot物理書中の「7鏡による光の再合成器」の説明図

この装置を使った実験は今日では、もはや行われていないし、当然、製造販売はされていない。したがって、そのレプリカを作成するには、試行錯誤をして製作していくしかない。業者に製作を依頼したが、当初、分散の小さいクラウンガラスが使われたために、屈折光のスペクトル幅が小さく、スペクトル光が7個の鏡にうまく分かれなかった。この問題は、分散の大きいフリントガラスを使用して解決できた。

来館者にレプリカによる再現実験を楽しんでもらい、いささかでも物理学の歴史に思いをはせてもらえたものと考えている。

(大阪経済法科大学教養部教授・物理学史)

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平成14年度特別企画展 ごあいさつ

期間 平成14年10月2日(水)-12月27日(金)(月・火曜日休館)
開館時間 午前9時30分-午後4時30分(入館は午後4時まで)
会場 第2企画展示室(南棟2階)

物理実験機器の写真

ごあいさつ

総合博物館は平成13年6月に開館し、まだ歴史の浅い博物館です。しかし、当館は、京都大学に保存されている貴重な学術標本類を広く社会に公開することを特に重視し、展示に力を入れてきました。今回は、総合人間学部で所蔵されていた物理実験機器をもとに、企画展示「近代日本を拓いた物理実験機器」を開催しました。

総合人間学部は、明治2年創設の舎密局、明治27年の第三高等学校を前身としており、非常に深い歴史を持っております。同学部に保存されていた実験機器は、京都大学及び近代日本を物語る貴重な歴史資料です。これらの資料を観覧し、歴史をたどる楽しさを味わっていただければ幸いです。

京都大学総合博物館長 瀬戸口烈司

物理実験機器コレクションから歴史を読む

明治2年の舎密局以来の長い歴史を持つ京都大学に、古い物理実験機器が多量に残されていました。これらの実験機器は、京都大学の物理研究と物理教育の歩みを物語るとともに、近代日本の科学と技術の成長過程を明らかにする貴重な歴史資料です。

今日、日本の工場が海外に移転し、産業空洞化が進行しています。そうした中で、日本の科学と技術の源流にさかのぼって、今一度、今日の日本の科学技術を見直そうとする気運が高まってきています。京都大学の歴史的実験機器はまさに、そうした動きに答えるものです。

この特別展示では、物理実験機器と物理学教科書をもとにして、近代日本における物理実験機器の製作と研究教育への利用の歴史をたどります。

また、歴史的実験機器をもとに、今日ではもう行われなくなった物理実験の再現を行いました。それらの実験を体験し、当時の物理教育に思いをはせてください。

企画・プロデュース
大阪経済法科大学 教授 永平幸雄
京都大学総合博物館助教授 城下荘平

写真:展示の様子

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平成14年度後期公開講座「近代日本の科学・技術と京都大学の歴史」

平成14年10月5日、12日に芝蘭開館で開催されました。

本講座では,我が国が技術立国となったことのルーツを探るべく,どのように欧米の先進技術を取り入れ,あるいは,独自の技術開発を行ってきたのかということについて,三高および京都大学に関係する歴史をたどりながら明らかにしていく。その際,三高コレクション,工学部所蔵資料,京都大学大学文書館所蔵の資料等の貴重な歴史的資料をもとに明らかにしていく。そして最後の講義では現在の最先端の土木技術について事例を元にわかりやすく解説する。

10月5日(午前の部) 第三高等学校,京都大学-そのユニークな歴史-

大学文書館助教授西山伸

第三高等学校,そして三高と密接な関係を持った京都大学は,いずれも他の教育機関とは異なるユニークな歴史をたどった。京都大学に保存されている歴史資料を使って,その制度的変遷を追い,両校が近代日本において果たした役割について紹介する。

10月5日(午後の部) 近代日本と物理実験機器

大阪経済法科大学教授永平幸雄

旧制第三高等学校由来の歴史的な物理実験機器と明治大正期の物理学教科書・実験書をもとにして,近代日本における物理学研究・物理学教育の発展の歴史をたどる。

10月12日(午前の部) 京都大学の近代産業技術遺産

総合博物館助教授城下荘平

京都大学は我が国が欧米から近代産業技術を輸入し我が国のものとして定着させていった時期に創設された。京大のみならず我が国の産業技術史にとっても貴重であるその頃の京大に残されている資料について紹介する。

10月12日(午後の部) ニューフロンティア スペース:地下空間の利用

大学院工学研究科教授大西有三

最新技術は,地下空間の利用を飛躍的に発展させ,都市の地下などに様々な構造物を作り出した。交通インフラとしてのトンネル,エネルギー関係の地下大空洞,防災施設などが構築されているので,事例を元にわかりやすく解説する。

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【研究ノート】アンドレ・ルロワ=グーランの日本留学

山中一郎

「現代知性の喪失」との大見出しで、アンドレ・ルロワ=グーランの1986年2月19日の死去を、フランスの有力紙である『ル・モンド』は報じた。ルロワ=グーランは1911年の生まれであるから、そのときはコレージュ・ドゥ・フランスの教授を退いていたが、1964年以来毎夏続けていたパリ近郊のパンスヴァン遺跡(11000年前のトナカイの狩猟場址)の発掘調査の指揮は、なおとりつづける現役であった。それに加えて、1960年代に完成をみた旧石器美術の研究もあって、ルロワ=グーランは先史学者とみなされていた。しかしその学問形成の歩みのうえでは、レヴィ=ストロースとともに構造主義人類学を担った民族学者と考えられもした。

ヒトが自然のなかで自然に働きかけることで生の営みを繰り広げてきたと考え、その営みのために駆使した道具と身ぶりの総体を「テクニーク」と定義する。そのテクニークは一定の時間の経過にともなって具現化される。それはヒトの行為を構成する動作連鎖(chaineeoperatoire)によって具現化されるといえる。この考え方をもって、発掘調査で得られたデータから過去のヒトの行為を読みとる作業を基礎とする、今日のフランス先史学のひとつの大きな傾向が成立している。ルロワ=グーランの発想から出発する研究の進展をみることができる。そのうえに、フランスの哲学者たちも、ルロワ=グーランの思想を論じる研究集会を開催するに至っている。

学校教育こそ小学校の4年で終わらざるをえない事情があったにせよ、ルロワ=グーランは、マルセル・モースの講義を聴講し、1930年代に誕生したばかりの民族学の研究に身を投じた。パリのエッフェル塔のセーヌ川を挟んだ対岸のトロカデロの丘の上に新しく人類博物館が建てられ、その「極北の民」のセクションの展示を担当することになる。そして展示を見事に仕上げただけではなく、『トナカイの文明』を1936年に著して、トナカイという自然環境の一部に関わって生の営みを演じたヒトを時・空間の軸上への体系化を試みた。そのとき25歳にして、研究者としての確固たる地位を得たのである。

そして1937年から39年に日本政府奨学金留学生として来日する。専攻は日本民族学であったが、実は先の「極北の民」の展示を仕上げる作業では、ルロワ=グーランはフィールドに立つことはなかった。ロシア語、中国語は修得していたが、日本語の勉強はしていなかった。テイヤールド=シャルダン神父が予定していた中国大陸での考古学の発掘調査に加わることになっていたが、日本の進出のために中止のやむなきに至った。そのかわりに日本の土を踏むことになったのであるから、人の運命は分からない。しかしフィールド科学にあっては、フィールドに立つことが研究者への道の必然の過程となる。日本からフランスに戻った1939年は、ドイツとの戦争のために研究に没頭することを許さなかった。とくに日本など旧敵国を取り扱う記述は戦後もしばらくのあいだ禁じられたのであるが、日本での勉強の成果を見事に結実させた『人と物質 進化と技術I』、『環境とテクニーク 進化と技術II』を1943年と45年に著した。これはその後1964年と65年に、『身ぶりと言葉I 技術と言語』、『身ぶりと言葉II 記憶とリズム』への発展をみて、ライフ・ワークが完成させられる。日本滞在はルロワ=グーランの学問形成に極めて大きな役割を担っている。

ルロワグーランの歩みについては、フランス文化省のフィリップ・スリエ氏が研究を進めている。昨年秋には京都に見えて、その概要を講演してくれた。またルロワ=グーランが帰路の船内でほぼ書き上げた『日本民族学』の原稿は、未亡人と筆者の友人であるジャン=フランソワ・レーブル氏の手で校訂されて、近くグルノーブルのジェローム・ミヨン社から出版される。書名はAndreLEROI-GOURHAN;PagesoublieessurleJapon(日本についての失われた頁)だという。

ルロワ=グーランの日本研究を知ることは、彼の学問形成を理解するのに避けられないが、日本文化を把握するについても大いに資するとことがある。「日本そば」のうちかたに通じるだけでも、あるいは「日本の農村の行事」にだけ興味を寄せたとしても、当時のフランスでは民族学者の列に加わることはできた。しかしルロワ=グーランはより難しい歩みを選択した。「たとえ自分自身が明日倒れたとしても、その方法で他の誰かが受け継いで作業を進めることができる、より体系化した日本民族学を打ち立てようと考えた」、と語っている。スリエ氏やレーブル氏の仕事が出版されるのが待たれるのである。さらに、そうした未定稿のほかに、ルロワ=グーランは1000枚をこえる日本の写真を残している。未亡人に協力して、筆者がこれらの写真を整理して、順次刊行しているところである。LeJaponvuparAndreLEROI-GOURHAN1937-1939であり、すでに第1巻から第3巻までを出版した。残る2巻に京都で撮影された写真を収録する予定である。

これらの写真は65年前の日本の姿を伝える貴重な資料であるが、そこにルロワ=グーランという民族学者の視点を窺うことができ、生きる営みを自然のなかにおけるヒトの自然への働きかけであるとするユニークな眼を通した見方を学ぶことができる。

なお、このれらの写真はCD-Rom化して保存することにしているが、総合博物館にも寄贈される。

(京都大学総合博物館教授・考古学)

写真

北海道旅行も終わりに近づいた。買い入れた荷物がますます大きくなっていった。1938年8月末、北海道平取町・二風谷にて。

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夏休みサイエンス教室週間(第2回目)の開催

京都大学総合博物館では、昨年に引き続いて、今年も夏休みの終わり8月28日から9月1日にかけて、「夏休みサイエンス教室週間」を催した。夏休みの児童・生徒を主な対象中心にした催しは、1999年の「大文字山の科学」以来これで4年連続、「夏休みサイエンス教室週間」は、昨年、に続いて2回目ということになる。今回は、従来にも増して館内外から多彩な講師陣の協力を得ることができ、小・中学生を中心に、シニアの皆さんにも理系・文系の内容を楽しく学習をしていただける充実したプログラムを提供することができた。

とくに、8月30日に一日を使って開催した「ロボット実験室」は、総合人間学部助教授の酒井敏氏と、同学部講師北原達正氏の2名が催しの趣旨に賛同して開催してくださったものである。LEGOマインドストーム基本セットと赤外線放射温度計を使って、ロボットの組み立てからプログラム、試験走行まで、すべて参加者自身で行ってもらった。そして、館内にしつらえた「火星」の荒野を走り抜けて「火星の極地方」にある氷冠(実際にはかち割り氷)に到達するという内容の教室であった。「誰でも簡単にできるわけではありませんので、ちょっぴり覚悟してきてください。やる気があれば、小学生高学年(5,6年生)でもできると思います。」と募集広告にうたって、やる気のある参加者を募った。実際みんな熱心に課題に取り組み、参加者全員がゴールにたどり着けた。

また、8月31日(土)の午前中は、総合博物館助手村山亜希氏が講師となって、「江戸時代の地図」というプログラムを開催した。京都大学が所蔵する多数の江戸時代の京都の地図をじっくり観察し、そこには現代の私たちが知っている「正しい」地図とは全く異なる、江戸時代の人々が思い描いたイメージの世界があることを探った。子供達には、昔の人たちが私たちとは違う世界観をもっていたといってもすぐには理解しにくいのであるが、このプログラムでは、冒頭で世界地図をフリーハンドで描く実習を取り入れて、本来客観的であるはずの地図も実際には、身近なところは詳しく、そうでないところはかなりいい加減にしか理解していないことをまず参加者に体感してもらった。その結果、江戸時代の人たちが私たちとは違う京都の地図を心に描いていたことなど、その後の解説がすんなり理解でき、好評であった。村山助手のアイデアの賜物であった。

9月1日の午後には、工学研究科教授・西本清一氏が講師となって、中高生を対象に「光と物質が織りなす色の科学」と題したプログラムを開催した。西本氏には、すでに総合博物館で2度の科学教室の講師を務めていただいている。ロウソクの科学、磁石の科学などに引き続き、今回は『色』を主題に採り上げたプログラムを開催してくださった。原子や分子の中で運動する電子に光が様々な構造をもつ物質に作用しする結果、『色』が様々な姿をして現れることを説明された。量子力学にも立ち入る高度な内容であったが、美しい色を示すモルフォチョウのハネなど身近な題材を使って、判りやすく解説された。最後に参加者は、黒色のインクをペーパー・クロマトグラフィーで3色の染料に分解し、「実験を通じて現象を観察する→何が起こっているかを想像する→現象を説明するための考え方を示す→その考えを基礎にして新しい実験を組み立てる」という考え行動する手順の初歩を学んだ。

その他、8月28日には、午前と午後にそれぞれ児童と成人を主な対象とした「総合博物館の化石展示見学ツアー」を、8月30日の午後には、小学生高学年を対象に「生命の進化を探るー三葉虫をさわってみよう」の催しも開催した。いずれも、大野照文が講師を努める、定番的催しである。

以上、のべ6つのプログラムの募集定員は、計185名であったが、過去3年の実績もあり、以前に館の催しに参加した経験のある人も含めた383名の申し込みがあり、結果的に192名に参加していただくこととなった。毎回のことながら、このような催しを続けて開催して欲しいという要望がどのプログラムについても述べられるくらい参加者の満足の度合いは高かった。ご協力いただいた先生方、応募 方に感謝するとともに、今後、さらに館内外の諸先生がたの協力を得ながら、京都大学総合博物館ならでの質の高いプログラムを数多く提供してゆければと念じている。

(京都大学総合博物館教授 大野照文)

写真
「江戸時代の地図」。博物館常設展示で京都の古地図も見学した。

写真
「光りと物質が織りなす色の科学」講義風景。

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【レクチャーシリーズ】「鬱陵島の植物と山菜」開催報告

「ジュニアもシニアも楽しめる!総合博物館 レクチャー・シリーズ(Honzou-e)no.1

ニュースレターにもほぼ毎回紹介しているように、京都大学総合博物館では、折に触れ研究・教育の成果を広く市民に伝える活動を行っている。その一環として教官が市民向けの講演会を館内外で行ってきている。提供される話題は館の教官が自ら、あるいは学内外の優れた研究者と共同で行っている研究に基づいている。共同研究、とりわけ国際的共同研究を可能とするため総合博物館には、客員研究員のポストが用意されている。毎年数名の海外の著名な研究者を招ねいているが、平成14年4月1日から~8月1日にかけては、慶北学校自然科学大学生物学科教授・朴宰弘が博物館に滞在された。先生は、植物系統分類学がご専門である。

韓国では、科学技術処の21世紀ニュー・フロンティア自生植物利用開発事業の一環として、「FloraofKorea(韓半島綜合植物誌)」を編むという事業が進んでおり、2010年の完成を目指して編纂が続けられているが、先生はその指導的立場におられる。そこで、お願いしたところ鬱陵島の植物誌についてお話いただけることとなり、平成14年7月6日に「鬱陵島の植物と山菜」というタイトルで講演会を開催出来る運びとなった。

先生は、中井猛之進(なかいたけのしん)博士(1882~1952)による90年余り前の「朝鮮植物誌」の出版などに触れられながら、日本人も深く関わった韓国の植物研究の歴史をたどり、韓半島綜合植物誌発刊事業と韓国における植物分類学の現在の状況を紹介された。そして、日本海に浮かぶ小さな島でありながら、他で見ることのできない31種もの固有種を有する鬱陵島の植物相について、沢山のスライドを使ってわかりやすく紹介してくださった。

また、孤島故に食料事情の厳しかった鬱陵島では、生活の知恵として様々な植物を山菜として利用する独特の食文化が育まれたが、この点についても、興味深いお話をいただいた。講演は、流暢な日本語で、ユーモアも交え、さらには講演の途中でこの日のためにわざわざ鬱陵島からとりよせていただいた特産のカボチャ飴を振る舞ってくださるなど、参加者は楽しみながら日本では初めての鬱陵島の植物誌の紹介を聞くことができた。会場は、当博物館が誇るミューズラボに設定したが、一般市民25名を含む40名ほどの参加者で、客席の半円形ベンチがほどよく埋まった。ミューズラボという舞台仕立てと朴先生の絶妙な話術があいまって、普段にもまして好評な公開講演会となった。快く引き受けていただいた朴先生に心からお礼を申し上げる。

(京都大学総合博物館教授 大野照文)

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【博物館スタッフ紹介】大韓民国慶北大学校自然大学生物学科 教授 朴宰弘

京都大学総合博物館での五ヶ月間

桜の花が美しく咲き始めた3月31日に京都に着きました。韓国での忙しい生活とは違って,講議もなく,雑用もなく,誰にも邪魔されずに自分の仕事へ集中できる5ヶ月が始まったのです。

2000年9月,韓国の科学技術処の21世紀のニューフロンティア自生植物利用技術開発事業が発足しました。そのなかに韓半島総合植物誌発刊事業の10年計画があります。2003年には韓半島の全ての維管束植物の科の記載,属の検索表,属の記載,種の検索表,種の正しい学名,原名,分布の情報などを含む,英文の『GenericFloraofKorea』が出版される予定です。韓半島の植物を詳しく研究した東京大学教授,中井猛之進先生の『FloraofKorea』が出版されたのが1910年です。そのちょうど100年目に当たる2010年には『韓国植物誌』の完成を目指します。私が担当する分類群はキク科のタンポポ族(Lactuceae)とキク族(Anthemideae)で,両方合せると20属82分類群になります。

4月1日にさっそく,京都大学理学部植物学教室の先輩でチング(韓国語で「友達」の意味)でもある永益助教授から総合博物館を案内して頂きました。私が主に滞在した第2共同研究室は吉田山と大文字山が見える見晴らしがよい4階にあり,ひろびろした部屋です。情報資料室には今年亡くなられた京都大学名誉教授でキク科の権威である北村四郎先生から寄贈された,数多くの貴重な文献がありました。その中に北村先生の自筆で書かれたさまざまな見解を拝見できたことは,非常に印象深く,また大変ありがたいことでした。第3収蔵室(標本室)には北村先生自身が研究した標本,19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて日本を中心に大量の標本を採集したフランス人宣教師フォーリーの標本,学名の基準になるタイプ標本,私達が今行くことができない北朝鮮の標本など,研究を進めるうえで不可欠な貴重な標本がたくさん収蔵されておりました。海外の植物標本館にあるタイプ標本のマイクロフィッシュもありました。標本を写真標本と図書を参考して,分類群をじっくり観察し,他の研究者の考え方を考察し,韓国のタンポポ族とキク族を整理してみました。

その結果,タンポポ族のなかに13属41分類群,キク族には11属55分類群を認めることができました。分類群の取り扱いに付いて今まで解決の糸口が掴めず悩んでいたIxerischinensissubsp.versicolorの問題も解決しそうな見込みもつきました。たくさんの標本をじっくりと検討する機会をもつことができたことで,一番難しい分類群の一つといわれているヨモギ属を研究してみたいという意欲がでてきました。

一方,大野先生のお世話で平成14年7月6日に総合博物館のレクチャシリーズNo.1として,『鬱陵島の植物と山菜』という題で一般向けの講演も行いました。小学生5年生から82歳のお年寄りを含めた27人の一般の人々があつまりました。講演が終わった後に受けた数多くの質問は水準の高いもので,参加者達の実力に感激しました。

京都大学総合博物館はアジアのキクを研究するに一番うってつけの場所であることは間違いないと思います。このような素晴らしい機会を与えていただいた館長をはじめとする関係者皆様に深くお礼を申し上げます。

(大韓民国慶北大学校自然大学教授・植物系統分類学)

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京都大学総合博物館日誌(平成14年6月-9月)

6月1日
平成14年特別企画展「薬と自然誌」開催
6月1日
開館1周年記念催し開催
6月7日
第59回教官会議
6月14日
第14回運営委員会
6月28日
第14回協議員会
7月6日
レクチャー・シリーズ no.1「鬱陵島の植物と山菜」開催
7月12日
第60回教官会議
7月27日・8月3
第11回公開講座「薬と自然誌」
8月28日~9月1日
夏休みサイエンス教室週間(第2回)開催
8月31日
外国人研究員朴宰弘(大韓民国・慶北大学校自然科学大学生物学科教授)帰国
9月1日
外国人研究員尹惠洙(大韓民国・忠南大学校自然科学大学地質学科教授)来学
9月1日
平成14年特別企画展「薬と自然誌」終了
9月6日
第61回教官会議