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No.10(2001年9月30日発行)

No.10(2001年9月30日発行)

表紙

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開館にあたって

写真:瀬戸口烈司
瀬戸口烈司

京都大学に総合博物館が付置されて,すでに4年半になる。今年6月には一般公開を始めた。入館者も順調のようである。社会に開かれた京都大学の窓としての役割がはたせているのなら,まずは京大附属博物館としては及第であろう。

ようやく開館を迎えることができたこの時期だからこそ,ほとんど語られることもない「裏の話」を披露しておきたい。

大学に博物館がほしい,というのは大学人に共通した願望であろう。京大にはもともと文学部博物館はあったが,自然史系の博物館は存在しなかった。その文学部博物館にしても,建物だけがあって,組織は未整備のままだったのである。

文系にせよ,理系でも,研究が進めば標本・資料のたぐいは膨大な量が蓄積される。それらが各教室の廊下に山積みされ,放置されるひとしい運命をたどっていた。それらを収蔵して保管し,有効に活用する場として,博物館の建設がつよく望まれたのである。大学にあっては,ごく自然な流れである。

1997年に,ついに京大に総合博物館が付置されることになった。博物館の3大使命は,標本・資料の収蔵と研究,そして展示である。標本・資料の保管・管理や研究については,それぞれの研究が各教室において経験を蓄積しているところで,いわば研究者の「お手のもの」なのである。

ところが,展示については,研究者はまるでしろうとである。このように大掛かりな常設展示を経験した研究者など,京大の自然史系教官には誰もいない。どのような物を,どのように展示すればいいのか。新館建設と展示場の概要をすぐにとりまとめ,概算要求書に盛り込まなければならない。得意とする分野だけを駆け抜ければいいという時期はすでに過ぎた。

1970年代に,国立民族学博物館が開館してから,日本のなかで博物館の展示のありようががらりと変わってしまった。地方公共団体による公立博物館が次々に建設された。博物館ブームが巻きおこったのである。そして,「民博元年」という言葉まで生まれた。民博には,京大の卒業生も多く勤務している。まったく縁がない,というわけでもない。京大博物館も,民博の展示を参考にしようと考えないではなかった。しかし,規模,内容があまりにもちがいすぎた。みずからの身にあった展示をしようとすると,民博の展示は参考にならないことに気がついた。

博物館の建設ブームは,その一方で,展示にたずさわる業界を産業界のなかに育成するという役割も担っていた。博物館の展示場の建設を担当した会社には,展示に関する膨大な技術が蓄積されていった。その技術をいっそう開発し,体系化するために,1982年に日本展示学会が発足した。展示学は,技術学の一分野として確立されるまでに成熟していったのである。

大学博物館も,その技術力をじゅうぶんに取り入れなければならない。京大総合博物館では,展示の基本設計の立案にあたって展示の専門業者に協力を依頼した。民博の展示を施工した経験をもつ業者が設計の立案に参画してくれた。大学側がアイデアのアウトラインを提示し,それを業者が具体的なイメージに仕上げる。大学と業者の見事な連携プレーが展開された。こうしてできあがった設計にもとづき,別の業者が施工をおこなった。展示の予算が認められてから竣工まで,わずか1年と少ししかなかった。しかし,短期間の内に設計業者も施工業者も我々の意図をうまく引き出し,よく反映した展示をつくってくれた。開館後の展示に対する各方面の評判はすこぶるよい。これも日本の展示業界のレベルの高さを示すものであろう。

「一ツの工事(仕事)に二人の番匠,これにもさせたし彼にもさせたし,那箇(いずれ)にせんと上人もさすがにこれには迷われける」とは,幸田露伴の『五重塔』の名場面。しかし上人の悠長さとは正反対に工事についてあれこれ考えあぐねる時間的余裕さえなかった我々を展示業界の技術力が見事にカバーしてくれたのである。露伴の一節をもじれば,京大総合博物館の展示は,大阪の業者これを造り東京の業者これをなす,ということになろう。

(京都大学 総合博物館長)

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【収蔵資料散歩】濬田耕作と国府遺跡資料

山中一郎

本館が所蔵・保管する考古資料は,20万点とも,30万点とも数えられるが,総量を取り上げるまでもなく,個々の資料として日本の考古学史を語るときに大きな意味をもつものが多い。京都大学の考古学教室は,「日本の近代考古学の父」と呼ばれた濱田耕作によって創始されたのであるが,その濱田の資料重視の学風が収集された考古資料に色濃く反映されている。大日本帝国に唯ひとつ存在した大学制度のなかにおける考古学の教育機関に対して,基本的な考古資料を収集するのに濱田は努めたのである。

濱田が「第一等資料」と格付けした発掘調査によってもたらされる,研究目的から帰結される情報をともなった考古資料を,その収集資料の骨格に置いたのは当然のことであった。ところで開設された考古学講座の経費を用いてすぐに濱田が着手した発掘調査のひとつが,今日の大阪府藤井寺市にある国府(こう)遺跡の調査である。

考古学の調査が始められるきっかけの多くは,古今の東西を問わず考古遺物が拾われることにある。濱田の眼前にあったその採集された遺物とは,ここに写真で示すサヌカイト製の石器であり,調査報告書に正式に出されて以後,数々の引用をみてきたところである。京都大学文学部博物館が一般公開されてからは,展示ケースの一角を占めてきた。その展示に比較資料として並べられているように,この石器は濱田の時代からヨーロッパの前期旧石器時代の指標石器である両面調整石器(ハンド・アックス)によく似ているとみなされた。もしもこの類推が正しいとすれば,日本列島にヒトが住み始めた年代は,土器の出現するよりもずっと古いときまでさかのぼりうると考えられた。当時としてはそうした意識は薄かったと思われるが,「ナショナル・アイデンティティ」の形成に寄与することに結果的になる調査であった。あるいは今日的にいう「ジャーナリスティック」な調査とも,いうことができよう。

日本における考古学の開始期でなかったならば,この採集資料から旧石器時代の遺物を得るための発掘調査はなかったともいえる。その表面の風化度が進んでいないことがネガティブの判断をさせる根拠となろう。石器の風化度をその古さの推定根拠にすることから蓋然性の高い結論を引き出せるかどうについては議論があるが,そうした議論が日本考古学で盛んにおこなわれるのは,いわゆる「ねつ造」事件の後で,”前・中期旧石器時代”の「資料」の出土の仕方の不自然さを指摘しようとしてのことである。少なくとも,「旧石器発見」の目的も濱田の調査の方向で,岩宿遺跡の発見以後に国府遺跡が鎌木義昌によって再調査されるのは,この石器の存在がひとつの根拠をなしていると,考えることができる。鎌木の調査は,幸運にも残っていた,今日でいう低位段丘堆積土を掘りあてることができて,先土器時代(縄文時代より古い時期を日本考古学では誤ってそう呼んだ)の石器資料を得た。代表的な石器は「国府型ナイフ形石器」であり,それを作り出すための石の割り方はきわめて特徴的であるゆえに,「瀬戸内技法」と名付けられた。そして先土器時代の研究や,旧石器の製作技術の研究が進められていくうえで大きな役割を果たすのである。

濱田自身の調査は,鎌木のそれに比べると運がなかったことになる。「ハンド・アックス」に引きずられて,後期旧石器である,日本における独創的な資料を見落としたというのでは決してない。残っていた低位段丘堆積土に巡りあわなかったばかりでなく,おそらくは,深く掘り込まれた谷部が埋没してしまった地点に当たったのであろう。該当する時期の土層が侵食を受けたことによって遊離させられてしまった石器資料が,新しい時期の堆積土から見つけられることもなかった。しかし濱田は,思いがけず,別の時期の資料に遭遇した。縄文時代の遺跡を掘り出すことになった。しかも考古学資料だけではなく,ほぼ完全に近い埋葬人骨を得ることになったのである。濱田はただちに形質人類学者の研究参加を要請し,ここにわが国で初めての考古学と他の科学の共同研究が実行された。埋葬人骨資料は切り取られて,大学に運ばれ収蔵資料とされた。実物資料を遺跡から切り取る例としても,わが国における最初の例といえる(写真参照)。

写真
切り取られた埋葬人骨資料

写真
国府遺跡から採集されたサヌカイト製石器

考古学の調査は,他のいかなる研究におけると同じように,実施する目的をたてるにあたって,「予見」をもって始められる。目論見とでもいっておこう。濱田のそれもまたそうでしかなかったであろう。しかし濱田の偉大さは,その当初の目論見が外れたときの対応の仕方に認められる。予想外に眼前に姿を現わした考古資料を,当時の学術的処理の最良の仕方で成果に結びつけるのである。

凡人は「予定した」過程を突き進む,あるいは突き進もうとする。そこで新しいものを作り出す絶好の機会であることを見つけだすのは,なかなか難しいのである。本館が所蔵する国府遺跡の資料を,それを巡った濱田の思考に重複させて考えてみるとき,著者は常に,考古学への対応をこえて,人生の生き方への教訓を得る,「散歩」に引きずり込まれるのである。

(京都大学総合博物館教授・考古学)

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平成13年特別企画展「京都大学の遺伝子研究」

平成13年6月1日-9月30日

遺伝子の研究は近年目覚ましい進展をみせています。そして、この分野の研究の影響は私たちの生活のいろいろな分野に及んでいます。京都大学において、遺伝子の研究は世界のトップレベルにあるといっても過言ではありません。そこで、京都大学総合博物館の新館完成を記念して、京都大学の様々な研究室で行われている遺伝子に関する研究を学外にひろく知っていただくことを目的に、「京都大学の遺伝子研究」という特別企画展を開催いたしました。

展示は各研究室を単位にして、研究内容を紹介したパネルとそれに関連した展示品で行っています。合計77の研究テーマが展示されています。これらのテーマを「基礎コーナー」「医薬コーナー」「倫理コーナー」「農学コーナー」「自然史コーナー」の5つにわけて、閲覧される方々に理解しやすいように展示パネルと展示品を配置してあります。

基礎コーナーでは、ゲノム研究の基礎となるデータベース、生物体の構造その他の特徴と遺伝子の関係にかんした基礎研究が紹介されています。他のコーナーの研究の基礎となる研究ですので、会場の真ん中に展示して、どのコーナーからも参照できるように配置してあります。エネルギー理工学研究所、化学研究所、大学院生命科学研究科、大学院理学研究科、木質科学研究所が出品しています。

医薬コーナーでは、基礎医学、臨床医学、薬学に関する遺伝子研究の成果と現状を展示しています。遺伝子から人体の諸機能を知る研究、病気と遺伝子の関係、遺伝子診療や遺伝子治療、再生医療と遺伝子の関係、薬と遺伝子の関係など、私たちに密接に関わってくる研究が紹介されています。大学院医学研究科、大学院生命科学研究科、放射線生物研究センター、ウイルス研究所、再生医学研究所、大学院薬学研究科、東南アジア研究センターが出品しています。

倫理コーナーでは、ヒトゲノムや遺伝子解析研究によって進歩した生命科学と保健医療科学が社会との関わりのなかで直面する倫理的な問題点を指摘しています。大学院文学研究科が出品しています。

農学コーナーでは畜産、醸造、農作物、水産、害虫防除などに関わる遺伝子研究の果と現状を展示しています。農学は食物生産に関する科学ですから、家畜の品種、農作物の品種、農作物の遺伝子組み替え、発酵に関する微生物の利用、農作物の管理に関わる植物病理、重要魚類の資源管理に関わる個体群構造、害虫防除に関わる植物と昆虫の関係など、多様な研究が紹介されています。大学院農学研究科が出品しています。

自然史コーナーでは動物、植物、細菌の進化に関する研究成果を展示しています。また、動物の社会構造の解明に関係している遺伝子の研究も展示しています。生物の進化のあとを示す系統類縁関係の研究は、近年遺伝子の解析によって目覚ましい発展をみせていますが、それらの研究成果が紹介されています。これらの締めくくりとして、分子系統解析による生物全体の系統樹がしめされています。霊長類研究所、大学院理学研究科、大学院農学研究科、総合人間学部、大学院人間・環境学研究科が出品しています。

この企画展にあわせて、平成13年6月に公開講座「京都大学の遺伝子研究」をひらきました。以下に講師と講義内容の要旨を記しておきます。

6月23日(午前) 生物の進化をDNAで辿る
宮田 隆(大学院理学研究科 教授)
DNAは38億年の生物進化の情報を秘めた、いわば「分子化石」です。最近の分子系統学が明らかにした、これまでの常識と著しく違う事実を中心に、生物最古の進化から人類の進化まで、生物進化の道筋をDNAで辿って説明しました。
6月23日(午後) 京都大学のバイオインフォマティックス研究
五斗 進(化学研究所 助教授)
ゲノム配列決定後の生命情報のコンピューター解析を推進する拠点として、本年4月から京都大学化学研究所にバイオインフォマティックスセンターが設置されました。本センターでは、生命情報の知識ベースであるKEGGを始めとして様々なデータベースを構築し、これらを用いた解析手法を開発しています。これらのことをわかりやすく紹介しました。
6月30日(午前) 遺伝子研究とうまい牛肉
佐々木義之(大学院農学研究科 教授)
遺伝子研究はメンデルの法則の再発見からヒトゲノムの全塩基配列の解読に至るまでの長足の進歩を見せています。これらの研究は畜産物とくに牛肉の質の改良に関与しています。質的形質と量的形質をメンデル遺伝学に基づいて行った"第一世代"、DNAの解析に基づいて品種の研究を行っている"第二世代"に分けて牛の遺伝学的研究について紹介しました。
6月30日(午後) 遺伝子が語る生命像
本庶 佑(大学院医学研究科 教授)
ゲノムの情報は、ヒトの生命の設計図であるという話が広く伝わっています。このような説明からはゲノムの情報により生命のしくみはきっちりと規定されているように思われる方が多いと思います。しかし、ヒトのゲノムに含まれている遺伝子の数は予想外に少なく、ハエと比べても大差ないことが明らかになってきました。遺伝子、ゲノムとは何か。これに関係した新しい生命観と生命倫理の観点にたってクローン人間や遺伝子治療を始めとして遺伝子研究と私たちの社会の関係について述べました。

(文責:総合博物館教授 中坊徹次)

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【博物館スタッフ紹介】山村亜希

資料基礎調査系・助手

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今年4月に資料基礎調査系の助手として着任した山村亜希です。専門の研究分野は地理学で,今年3月に京都大学文学研究科にて課程博士を取得しました。これまでは,日本中世都市の空間構造について研究を行ってきました。近年,日本中世都市研究は文献史学・考古学・建築史学といった複数の分野で共同研究が進み,徐々にその実像が明らかになってきています。私は歴史地理学の立場から,中世都市「空間」を,諸施設・諸機能の形態や分布などから推定される「現実の空間」と,古地図や文書に表現された「認識された空間」とに分けて分析を進めてきました。その結果,両者は中世都市においては必ずしも一致するものでないことも分かってきました。その相違を当時の政治的・社会的・経済的な文脈に即して理解することが現在の研究課題です。

最近は,古地図についても大きな関心を抱いています。今年6月には当博物館にて京都大学附属図書館の主催により開催された『近世の京都図・世界図』展の企画に参加する機会を得て,刊行地図に描かれた京都像についてより興味を持つようになりました。当博物館にも,多くの貴重な古地図が所蔵されております。それらの分析を進め,作成者の空間認識や社会に受容された空間イメージや地理情報を検討し,古地図研究の可能性を広げたいと思っています。

また,当博物館に所蔵されている多くの貴重な資料に直接接する立場にあることを生かして,それらの管理・整理を行うとともに,資料の学術的活用の方法や視角もより一層検討していきたいと思います。

宜しくお願いします。

京都大学総合博物館日誌(平成13年4月~9月)

4月1日
(人事異動)

総合博物館から配置換
助教授 吉川真司 大学院文学研究科・文学部歴史文化学専攻へ
事務官 西條久夫 宇治地区事務部経理課へ
技術補佐員 河村たみ枝 大学院文学研究科・文学部へ
他学部等より転入
助教授 岩﨑奈緒子 滋賀大学経済学部附属史料館より
助 手 山村亜希  採用
主 任 岡 勇二 大学院医学研究科・医学部事務部庶務掛より
事務官 河田友彦 総合人間学部・人間・環境学研究科事務部 施設・管理掛より
技術補佐員 能勢文子 採用
5月30日
総合博物館南棟竣工式典
6月23日・30日
第9回公開講座
8月22日~26日
夏休みサイエンス教室開催